一九四四(昭和十九)年に島原市内の尋常高等小学校を卒業後、三菱長崎兵器製作所大橋工場で働いた。実習を経て魚雷部品製造の一端を担う第一製品検査係に配属された。
戦況悪化に伴い、仕事の傍ら、工場内の三階建てビル屋上の監視所で敵機来襲に備えて望遠鏡で見張り番をするようになった。あの日は、警戒警報が発令され、同僚と二人で監視所にいた。午前十一時二分、ものすごい光線に照射されて気絶。部屋は燃え上がり、私は全身やけどで額からは血が流れていた。「死んでたまるか」の思いで階段を下りると、ビルの室内から「助けて、助けて」の声が相次いで聞こえた。助けたかったが、自分も危うく、どうしようもなかった。
ビルを出ると、そこら中の地面に死体がたくさん横たわっていた。寮は工場の近くだったが、周囲は火の海で行けなかった。少しでも島原の実家に近づきたい一心で道の尾駅に向け線路を歩いた。駅にたどり着くと、敵機来襲を心配してか、近くの山に入るよう避難誘導があった。夕方になり「このままここにいたら死んでしまう」と思い駅に戻った。間もなく、負傷者を乗せる列車の運行が知らされ、乗り込んだ。途中、敵機来襲を警戒し、トンネル内で列車が停止するなどしたため、諫早駅に着いたときは暗くなっていた。
駅のホームには、救護を任された地元女性など多くの人がいた。その夜、近くの女学校校舎で仮治療を受け、翌十日朝、島原鉄道の列車に乗った。血みどろでランニングシャツ姿。乗客の視線は私に集中した。島原駅で降り歩いて実家に向かう途中、島原城の近くで男性から自転車の後部に乗せてもらった。近所の人の知らせで実家近くで出迎えた母は、私の姿を見て大変驚いた。
実家に着いてさらに大変な事態になった。ほっとしたのもつかの間、振り絞った気力がぷっつり途切れたのか発熱で寝込んでしまい、意識不明になった。生死をさまよい、意識が戻ったのは十二月ごろ。その間の記憶は全くない。全身に傷を負いながらも助かったのは、母の懸命な看護と医師の治療のおかげと感謝している。
(島原)
<私の願い>
つくづくと命の大切さを感じる。核兵器など絶対にあってならない。イラクの戦闘も悲しい。地域や社会のために尽くすのが自らの使命と思っている。