茶谷志津子
茶谷志津子(80)
茶谷志津子さん(80) 爆心地から1.5キロの現・住吉町で被爆 =西彼大瀬戸町瀬戸樫浦郷=

私の被爆ノート

やけどのにおい壕に充満

2004年9月2日 掲載
茶谷志津子
茶谷志津子(80) 茶谷志津子さん(80) 爆心地から1.5キロの現・住吉町で被爆 =西彼大瀬戸町瀬戸樫浦郷=

純心女学校を卒業し、現在の住吉町にあった西浦上郵便局で電信、電話の仕事に従事していた。伯父が局長をしており、母親も同じ局舎の窓口で為替の仕事をしていた。私は二十歳だった。

「ドーン」という音とともに木造平屋の局舎はつぶれた。爆弾が落ちたときは低い姿勢をとれと教えられていたので、「ピカッ」と光った後、局舎の中にあった台所のかまどと縁側のすき間にはいつくばった。

約一時間後、がれきの中からはい出して母と再会。母は頭から顔にかけて血だらけだったが「志津子、生きとったね」と声を掛けてくれた。自分は両手で頭を覆い隠していたので両腕のやけどで済んだ。ブラウスが焼け焦げて肌着だけ残っていた。

浦上方面を見渡すと建物はなくなり、一面が焼け野原になっていた。男も女も裸同然の姿で逃げまどい、右往左往の状態。ぱんぱんに膨れあがった馬が天に足を向けて倒れていた。地獄だった。局の敷地内の畑で作っていたカボチャを割ったら中が消し炭のようになっていた。

その日は夕方まで防空壕(ごう)に避難。壕の中は避難してきた報国隊の若い人たちでいっぱいになり、うめき声ばかりが聞こえた。薬もなく、声を掛ける元気もなく、やけどのにおいが壕の中に充満していた。きれいだった近所の娘さんが熱線に焼かれてひどいやけどを負っており、かわいそうだった。

その日の夜、道ノ尾にあった伯父の家まで母と歩いて行った。家はガラスが割れ、ふすまはねじ曲がっていたが、夜露はしのげると思い、数日寝泊まりした。

その後、出身地の飯盛町に行き、親類の家に身を寄せたが、ひと月からふた月ほどご飯を受け付けず、伯父たちが「こん子は原爆のガスば引きこんどる(吸い込んでいる)とばい」と話すのが聞こえた。それを聞いて「自分は死ぬのかな」と思った。

二年前の八月、それまで原爆のことを思い出すのがいやで行けなかった長崎原爆資料館を訪ねた。その夜は当時のことを思い出して寝付けなかった。
<私の願い>
女学校時代の同級生は浦上方面の人が多く、ほとんどが爆死した。戦争はいけない。孫、ひ孫へと平和な時代を引き継いでもらいたい。現代は科学兵器の戦争で、大きな戦いになったら人類は破滅する。

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