長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

水を求め長姉絶える

2004年8月20日 掲載
下田 敏行(69) 下田 敏行さん(69) 爆心地から2キロの稲佐町2丁目(当時)で被爆 =長崎市界2丁目=

稲佐国民学校の五年生で十歳だった。夏休みで、悟真寺そばの自宅でくつろいでいると、いつもと違う飛行機の爆音が聞こえた。「敵機ではないか」という母から、夜勤明けで二階で寝ていた姉(二女)の美佐子を起こすよう言われ二階に駆け上がると、ピカッと光りがした。

「姉ちゃん」と叫び、階段を駆け下りるのと同時に吹き飛ばされ、母の「敏行」と呼ぶ声で気が付いた。体を覆っていた建具などをかきのけた。半ズボン姿だったので右ひざの内側が大きく切れ、ドクドクッと寒天のような血が噴き出し、痛くて立てなかった。

母は口の上が大きく切れ、二階から下りてきた姉も顔から血が噴き出ていた。地面に尻を着き、左脚でこぐようにして家のそばの防空壕(ごう)に避難した。どうやって止血したのか覚えていない。数時間後、駆け付けた叔父に背負われ、母と姉と町内の稲佐国際墓地内にあった大きな防空壕に移った。

後で分かったのだが、姉(長女)の静子は浜口町の勤め先で被爆し、同僚に水を飲ませようと浦上川に連れて行ったものの、そこで動けなくなって平戸小屋町の防空壕に連れていかれた。十一日、居場所を知った父と姉(三女)の妙子が駆け付けると、静子は「胸が燃える」と苦しみ、「水を」「トマトを」と欲しがった。十四日に自宅に戻ったが、翌十五日に息絶えた。

父に背負われて自宅に戻ると、母が静子の体をふいていた。爆風が直撃したためか背中は紫色に変色していた。自宅前の空き地で火葬した。夕方まで、日本が負けたことを知らなかった。

八月末から一カ月、父の古里の南高深江村に疎開した。長崎駅まで向かう途中、人や牛、馬が多数焼死して腐敗臭がすごく、鼻を覆いながら歩いた。村に着くと七面鳥、ごはんに生卵と忘れられないごちそうを味わった。ひざの傷口にはウジがわき、臭かった。その後、学校を卒業するまで足を引きずって歩いた。数年後まで、雷が鳴ると怖くて押し入れに逃げ込んだ。

今でも、原爆の恐ろしさは忘れることができない。
<私の願い>
戦争はもうたくさんだ。食べ物や物品など不自由ない平和な日本、平和な世界であってほしい。地球上からすべての核兵器を廃絶すべきだ。

ページ上部へ