徴用を受けて、西彼香焼村(当時)の川南造船所で工員として働いていた。十八歳だった。とにかく仕事に明け暮れていた。一万トン級の輸送船を建造中だった。
あの日の朝も、造船所で作業をしていた。空襲警報が鳴ったので、工員仲間と二百メートルほど離れた防空壕(ごう)に逃げ込んだが、ほどなくして警報が解除され、また仕事に戻った。
その瞬間は、建造中の船内におり、外の様子は分からなかった。ただ、強い光を見たような気がする。船内の騒音が激しく、音や衝撃は感じなかったと思う。だが、船の外に出ると、工場や当時住んでいた寮のガラス窓は粉々に割れていた。所属長から「長崎に新型爆弾が落とされた。二、三万人死んだらしい」と聞かされた。
午後、上司から長崎市内での作業を命じられた。丸山にあった食糧倉庫に備蓄されていた大豆の麻袋を安全な場所に移動させる仕事だった。香焼から川工丸という渡海船で大波止に到着。そこから丸山までは徒歩だった。町の被害は少なかったように感じた。後からの火災で建物が燃えたのだろう。
大豆を運び出す作業はその日だけだった。翌日から一週間は長崎駅と浦上駅の間で、遺体を処理する仕事を命じられた。朝八時から夕方まで、五、六人のグループで十―十五体ほどを積み重ね、次々に火を付けた。
日がたつにつれ、遺体は腐り始めた。ものすごいにおいが鼻を突いた。顔や体は膨れ上がり、鼻や口からウジや白い泡のようなものが吹き出している。目が飛び出た遺体もあった。それでも怖いとか、汚いとかの感情はなかった。いつの間にか慣れてしまい、淡々と仕事をこなしていた。その作業は終戦の日まで休みなく続いた。
長崎を離れたのは十八日。列車で博多港まで行き、船で対馬に戻った。若かったからか、ただただ家族に再会できることがうれしかった。道中は、生きて帰れる喜びに浸っていた。
<私の願い>
人間がいる限り、この世から紛争やいさかいをなくすことは難しいだろう。しかし、だからこそ、一瞬で多くの人の命を奪う原爆は世界から消滅させなければならない。