野子国民学校(現平戸市立野子小)を卒業と同時に、長崎市の三菱長崎造船所に入った。十七歳だった。「軍需工場で働けば、満州への出征を免れる」と願った母が就職話を勧めた。漁村育ちだったことから、造船所では工員輸送のタグボートに乗務した。
あの日も午前八時に出勤。原爆投下時は、長崎港内に停泊する修理船から、午前の作業を終えた工員二十人を造船所に運ぶ途中だった。突然、何かが光り、強烈な爆風が襲ってきた。
衝撃でボートは沈没寸前まで大きく傾き、ブリッジの室内にいた船長や甲板に立つ工員の半分は海に投げ出された。「とっさのことで何がなんだか分からなかった」。船首近くにいた私はどうにか身を持ちこたえた。
爆音は数分たってから聞こえたように感じた。上半身裸で、長ズボンのすそをひざまでまくり上げて作業をしていたため、背中と両足のふくらはぎに大やけどを負った。ボートを造船所岸壁に係留し食堂を見に行ったら、窓ガラスがすべて飛び散っていた。
住民とともに、造船所近くの防空壕(ごう)に逃げ込んだとき、浦上方面が火の海になっていることを初めて知った。「ドカン!」とガスタンクの爆発音がとどろいた。町は三日三晩燃え続けた。
防空壕の中で「長崎に原子爆弾が落とされたようだ」と聞いた。平戸小屋町の下宿に帰る途中、電柱の上部がろうそくのように燃えている不思議な光景を見た。
一週間は行く所がなく下宿にじっとしていた。時折、上空に米軍機を見た。三菱病院に薬はなく、自分で患部にしょうゆや船用油を塗ったりして痛みに耐えた。
敗戦を告げる玉音放送は下宿のラジオで聞いた。「自分たち若者も間違いなくアメリカ軍に殺される」と思い込んでいた。原爆投下から三カ月後、やけどはほぼ完治したが、左肩に今も黒い染みが残る。
<私の願い>
戦争は国と国との競争心が引き起こす。二度と繰り返してはならない。戦後生まれの政治家は戦争の実相をもっと直視すべきだ。昨今は少年犯罪が多発しているが「生きるために気張れば、何でもできる」ということを今の子どもたちに伝えたい。