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私の被爆ノート

うめき横たわる負傷者

2004年7月29日 掲載
前川スミヱ(78) 前川スミヱ(78) 爆心地から3.3キロの西彼長与村高田郷(当時)で被爆 =長崎市竿浦町=

西彼長与村高田郷(当時)に両親と暮らし、家業の農業を手伝っていた。十九歳だった。

あの日、私は水色の半袖のシャツを着て、頭にタオルを乗せてその上に麦わら帽子をかぶり、母と二人で家の近くにある田んぼの草取りをしていた。飛行機が飛んできたが、その飛行機が通り過ぎたと思った瞬間、ピカッと光り、ほぼ同時に強い爆風が火の粉とともに押し寄せてきた。

火の粉は私と母の体に降り掛かり、麦わら帽子は燃え、シャツに穴が開いた。慌てて帽子を捨て、田んぼの水を掛け合って体を冷やした。周囲にあったわらぶき屋根の家から火の手が上がり、二人ともはだしで家まで走った。家は倒壊を免れたが屋根は吹き飛び、壁掛けの時計は落ち、茶わんも割れたぐちゃぐちゃの状態で、近所の人と近くの防空壕(ごう)へ逃げた。

自宅近くの道ノ尾駅には、長崎から負傷者が次々と運ばれていた。同駅に勤めていた父はその日休みだったが、「緊急事態だ」と言って制服に着替えて出勤し、負傷者の搬送場所などを指示していた。私は翌日、負傷者の手当てをするため駅に向かうと、駅前の広場にはわらの上に三百人くらいの負傷者が横たわっていた。服はちぎれ、手や腕の皮ははがれて赤くただれ、髪の毛は縮れていた。男女の区別も分からないほどだったが、私たちはバケツに水をくんで「水、水」とうめく一人ひとりに水を与え、応援に来た佐賀の陸軍病院の軍医さんや看護婦さんと奔走した。夜は炊き出しをし、おにぎりを軍医さんたちに差し入れるなどしていた。

その後は防空壕で過ごし、十五日に終戦を知って自宅に戻った。もう五十九年たつが、負傷者の「あいたよー(痛い)、あいたよー」という叫び声や光景が頭に染み込んで離れず、今も夢に見る。数年前から始めた短歌で、あの日のことを「熱線に 黒く赤く焼きただれ 水水悲鳴 吾永久(とわ)に忘れず」と詠んだ。孫たちにも原爆の恐ろしさ、戦争の悲しさを話して聞かせている。
<私の願い>
イラク戦争では一般人も大勢亡くなっている。米大統領は一刻も早く戦争をやめてほしい。日本も多くの国民を死なせた過去を忘れず、戦争に反対する姿勢を貫くべきだ。

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