大分県豊後高田町(現豊後高田市)の実家を出て、浜口町にあった三菱長崎造船所の三菱工業青年学校に入り、同造船所の立神工場で少年工として働いていた。十七歳だった。
あの日も朝からガス溶接器の仕上げ作業をしていた。突然、「あっ、落下傘(ラジオゾンデ)が二個」と対空監視の後輩が叫んだ。その瞬間、閃光(せんこう)が走り、すさまじい爆風が工場を襲った。窓ガラスは割れ、ドラム缶は倒れ、とっさに作業台の下に身を隠した私の体も一瞬浮いた感じだった。何が起こったのか分からないまま、「退避」の声とともに夢中で近くの防空壕(ごう)に向かった。
二時間ほどたって、防空壕を出た私はがくぜんとした。長崎駅以北は火の海。上空は灰色にオレンジ、ピンク色が混ざった不気味な煙が広がっていた。夜になっても消えない炎。工場の山手にあった寮からの光景はまるで鬼火のようだった。
翌日、私たちは一班八人の救援隊を組織して、爆心地近くにある大橋の三菱長崎兵器製作所へ向かった。工場を出てしばらくすると、足がすくんだ。稲佐山のすそ野、旭町周辺は煙が立ちこめ街がなくなっていた。見渡す限りがれきの山。
行く先々で、焼け焦げた死体が転がり、異臭が漂った。幸町では閃光で目を覆ったまま黒焦げになった子どもたちもいた。兵器製作所は押しつぶされ、床にはガラス片が全身に突き刺さった死体があり、工作機械の下敷きになった女性もいた。一人も救助できないまま、私たちは工場を後にした。
道ノ尾の神社の境内で、横たえられた負傷者と一夜を明かした。「お母さん」と泣き叫ぶ子ども。「水をください」と声を振り絞る女性。この日の出来事は地獄絵そのものだった。
終戦後、働く気力を失った。原爆症だった。長崎を去り、会社を転々とした。原爆以上に、その後の生活はつらく苦しかった。多くの人が犠牲になった戦争、原爆が憎い。この思いを子どもたちに伝えるため、二十年前から語り部活動を続けている。
(福岡支社)
<私の願い>
原爆で瞬時に殺された人たち。生き残った被爆者の六十年にわたる苦しみ。戦争は憎しみ、悲しみしか残さない。しかし、日本は戦争をする国へ進もうとしている。戦争のない平和な未来を子どもたちに残すために、何としてでも食い止めなければならない。