五島を離れ、長崎市炉粕町の叔父の家から旧制県立長崎中に通っていたが、志願して一九四四年七月に予科練に入隊。その後、佐世保航空隊に配属された。
基地内の防空壕(ごう)の中に通信室があり、通信兵として気象の分析や暗号の解読などに当たっていた。四五年五月ごろから、モーターボートのような一人乗りの船に爆薬を積んで敵の艦船に突っ込む特攻隊の訓練も始まっていた。
あの日は基地内で訓練中、突然地震のような地響きがあった。その日の夕食時、上官から「長崎に新型爆弾が落とされて甚大な被害だ。親兄弟、叔父、叔母がいる者は申し出ろ」と言われたので申し出た。
その後戦争が終わり除隊した。二十日朝、トラック二台に分乗し、五十―六十人で長崎に向かった。諫早や矢上を経て到着したのは出発して約三時間後だった。
爆心地近くでトラックを降りると、何とも言えない悪臭が漂い、街並みが一変していた。倒壊した家々や散乱した木材、瓦などで道路はふさがれ、白い布をかぶせられた死体が脇に幾つも転がっていた。やるせない気持ちになった。
歩いて県庁を経由し、新興善小の前を通るとものすごい人だかりで、人の出入りが激しかった。中には大やけどを負い、腕の皮膚がぶら下がった状態の人もいた。
無我夢中で炉粕町の叔父の家に向かい、午後七時ごろ到着した。叔父夫婦、近くに住んでいた祖母と無事に再会を果たすことができ、涙に暮れた。家の窓ガラスはほとんど割れていて、紙で応急処置をしていた。障子もすべて破れていた。
三日間滞在していったんは五島に帰ったが、叔父が復学の手続きをしてくれていたので、九月一日からまた県立長崎中に通い始めた。
外見上は無傷だが次第に頭髪が抜けて登校しなくなり、亡くなった友人もいた。同級生約三百六十人のうち、百人余りが原爆で亡くなったと聞いている。
その後五島に帰って底引き網船に乗った。五十六歳の時、下あごにがんが見つかり、三回の手術をした。無事に完治したが、今でも年二回、病院で検査を受けている。
<私の願い>
平和的な解決方法はいくらでもある。どういう状態であっても絶対に戦争をしてはならない。日本にも見直すべき点はいくらでもある。もう少し原点に返り、平和な政治に期待したい。