冨永 末夫
冨永 末夫(71)
冨永 末夫さん(71) 入市被爆 =長崎市手熊町=

私の被爆ノート

学校も友人も失った

2004年7月8日 掲載
冨永 末夫
冨永 末夫(71) 冨永 末夫さん(71) 入市被爆 =長崎市手熊町=

当時、県立長崎工業学校一年生。西彼杵郡福田村手熊郷(現在の長崎市手熊町)で母親と二人暮らしだった。八月九日は朝から警戒警報が出ていたので学校を休み、自宅にいた。柿泊の農家までジャガイモを買いに行ったおばが、荷物が重いというので手伝うことに。自宅近くのおばの家に着き、背負っていたかごを玄関に下ろした瞬間、ピカーッと光った。

爆音とともに爆風が吹いたが、山に遮られたのか自宅や近所の家は瓦が落ちた程度で済んだ、大きな被害は、手熊国民学校の天井が吹き飛んだくらい。岩屋山の右側に入道雲のような大きな雲が立ち込め、北東の方向に流れていくのが見えた。それから空襲警報が鳴り出した。

その後、学校に行った友人の帰りを待っていた。油木谷を下っている途中に被爆した友人は、やけどで顔の皮がはげていた。別の友人らはたまたま建物の陰にいたおかげで無傷だったが、現在の県立総合体育館(油木町)の辺りにいた上級生は全滅だったそうだ。また、同級生だった女の子三人が電車の中で亡くなったと聞いた。

九日以降は家にいたが、子どもだったためか、市内の惨状はほとんど教えてもらえなかった。ただ、あちらこちらの家で人が死んでいくという話は耳に入ってきた。当時は原爆のことを知らず、普通の爆弾が落ちたくらいに思っていた。

一週間くらいして、大橋町辺りに住む学校の友人たちを捜しに行った。学校は爆心地からそれほど遠くない場所にあり、木造の校舎は燃えてなくなり、あの日学校にいた友人も死んでいた。付近もほとんど家がつぶれてガラスや瓦が飛び散り、歩く場所もなかった。城山国民学校が残っているのは見えたが、建物はつぶれてしまっていた。
<私の願い>
戦争中は警戒警報や空襲警報のたびに逃げ回った。道路の下の暗きょに隠れたり、家に帰らず防空壕(ごう)で夜明かししたこともあったことをよく覚えている。戦争は大嫌い。絶対になくなってほしいと願っている。

ページ上部へ