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私の被爆ノート

放射線障害に苦しむ

2004年7月2日 掲載
河野 次男(77) 河野 次男さん(77) 爆心地から2.5キロの長崎市上西山町で被爆 =東京都東大和市=

当時十八歳。海軍にいた私は、上官から「お前たちはあと半年の命だ。最後の墓参りに行ってこい」と言われて帰省した。実家は諏訪神社のすぐ近く。二階家の一階和室にいたときだ。ピカッとした閃光(せんこう)の後、ドーンと強い爆風を受けた。ガラスが割れ、障子は吹き飛び、たんすが倒れた。部屋の中がものすごい風圧でかき回された。すぐ近くに爆弾が落ちたと思った。

それまで真夏の陽光を浴びて美しかった周囲の景色が突然暗くなり、黄色い土ぼこりの中にいるようで、辺りは夕暮れのようになった。

父は市内の西浜町の銀行に勤務していて助かった。帰宅した父とともに、松山町に住む叔父を捜しに出掛けた。爆心地の近くで、黒焦げになった遺体が転がっている。爆風でつぶれた家が道路に押し寄せ、道幅が極端に狭くなっていた。

がれきの山と化した廃虚の中で異様な格好で急ぐ人、夢遊病者のようにうろつく人、立ち止まって泣いている人…。家族四人が真っ黒焦げで横たわったままの惨状も目にした。

叔父を捜したが見つからない。薄暗くなるまで浦上を歩き回り、むなしく帰宅した。当時、残留放射線の恐ろしさなど知るよしもなかった。

それから数日後、体が衰弱し、栄養失調も加わって、貧血で倒れた。数カ月、原因不明の発熱でうなされた。今考えると、放射線障害だったのだろう。医師が往診してくれたが「胆石ではないか」と見当違いの見立てをするなど、手の施しようがなかった。長期に安静にして、自然治癒を待つばかりだった。

体調は徐々に戻り始めたが、経済状態が悪く、貧困生活が続く。その影響から、胃腸障害で入退院を繰り返すようになった。一九七八年ごろには職場で急に息苦しくなり、狭心症と言われ、その後、心筋梗塞(こうそく)に移行していると診断された。そのときは「あと五年の命」と覚悟したが、薬や食事療法で今日まで過ごしている。
(東京支社)

<私の願い>
半世紀以上前の被爆の惨劇を思うと、二度と原水爆を人類の頭上で使用してはならない。生物・化学兵器が国際法上禁止されているのと同様、放射能を持つ核兵器は、国際法で絶対に禁止すべきだ。

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