長崎市新中川町に父母と兄弟姉妹の七人暮らしで、私は長崎測候所に勤めていた。当時二十歳。八月九日は午後五時からの夜勤予定だったので午前中、熊本に疎開する親友を長崎駅まで歩いて送っていた。
NHK長崎放送局のがけ下付近で飛行機の音が聞こえた。民家の軒下から空を見上げると、いきなり稲光のような閃光(せんこう)に包まれた。反射的にその民家に飛び込んだ。激しい衝撃で家屋が一瞬浮き、一気に柱などが倒れ込んできた。土ぼこりで息が詰まりそうになり「ここで死ぬんだ。おれの骨を親は見つけられないだろう」と観念したが、なんとか助かった。しばらくして道路に出た。親友は走って逃げたようだが、その後、姿は見ていない。
何が起きたのか分からないまま自宅へ向かった。どこからか「助けてくれ」という声が聞こえたが、自分のことで精いっぱいだった。高台で長崎駅が燃え始めるのが見えた。坂道を下りてきた労働者の四人は、上半身がやけどでただれていた。途中、出会った中学生から「浦上は全滅です」と教えられた。
やがて県防空本部(立山防空ごう)の前を通り掛かった。入り口付近に憲兵が立っていた。「浦上は全滅だそうですよ」と声を掛けると「ああ、原子爆弾ばい、そいは」と答えた。広島に投下された新型爆弾のことは新聞で知っていたが、「原子爆弾」の名称は初耳だった。その場面は今も鮮明に記憶している。
自宅は窓ガラスがすべて破損。家族は無事だったが、大橋の兵器工場にいた兄が行方不明となり、父が必死に捜し回った。一週間後、兄はやせ細った姿で帰宅。頭部から無数のガラス片が出てきた。
以降も観測所勤めを続けた。町中で遺体を焼く炎やその光景は決して忘れない。二十代後半、父母の出身地、五島富江町に移転し、現在まで暮らしている。
(五島)
<私の願い>
戦争は人間同士の殺し合いにすぎない。戦地では正義も悪もなくなり、互いにひどいことをしてしまう。二度と戦争をしてはならない。