川原八千代
川原八千代(77)
入市被爆 =佐世保市瀬戸越4丁目=

私の被爆ノート

体に染みついた腐臭

2004年6月17日 掲載
川原八千代
川原八千代(77) 入市被爆 =佐世保市瀬戸越4丁目=

十九歳だった私は、諫早市長田地区の実家で、病弱な父に代わって三歳上の兄嫁とともに農業に従事していた。母は前年に他界し、三人の兄は徴兵されていた。

八月九日、麦を出荷するために農協にいた。今まで聞いたことがないような音がしたので「なんじゃろか」と仲間と首をかしげた。帰宅すると長崎方面の空が真っ黒い雲で覆われていた。その日の夕方、長崎に爆弾が落ちたことを知った。「すごい数の人が死んでいる」との知らせを受けたのは二、三日後だった。

町内会班長の指示で遺体処理のため二回にわたって長崎入りした。一回目は十三日、妊娠中の兄嫁を実家に残し、近くに住んでいた姉たち数人とトラックに乗り込み、長崎に向かった。浦上辺りに着いたはずだが、破壊され尽くした焼け野原で記憶が定かでない。服がぼろぼろに破れ、皮膚が焼けただれた遺体があちこちに転がっていた。二人掛かりで抱えたり、引きずってトラックに乗せた。性別も分からない遺体もあった。恐怖でろくに周囲を見ることができず、一刻も早くそこから逃げ出したかった。けが人のうめき声が今も耳から離れない。

遺体は、地元諫早の長田国民学校で火葬にした。リヤカーや担架に遺体を乗せ、学校と火葬場の間を何度も往復した。血まみれの遺体を布きれで巻いた。時間が経過するにつれ、遺体から漂う強烈な腐臭が体に染みついた。

一緒に遺体を搬送した姉や、長崎の陸軍に勤務していた長男の兄も援護に向かい被爆した。目が覚めるたびに悲惨な現場を何度も思い起こした。佐世保に移り住んだ二十代から血尿と貧血が続いている。三十代には腎盂(じんう)腎炎で入院した。姉から被爆者検診の話を聞き、被爆者手帳を入手した時には被爆から三十年が経過していた。
(佐世保)

<私の願い>
核実験や北朝鮮の問題を考えると、果たして平和が続くのか心配になる。イラク戦争も話し合いで解決してほしかった。相手を思いやる気持ちや耐える力を養う教育が必要。戦争は恐ろしく、二度とあってほしくない。

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