旧制中学の二年生だった私は軍事物資などの運搬作業に駆り出されていた。九日は夜明けから警戒態勢で休みとなり、自宅で待機していた。父は長崎に入港する船の荷降ろし業を営んでいたが、戦時中は船の入港も少なかったようで、九日は家にいた。
午前中、父が近所の寄り合いに行くというので私もついていった。自宅から約三十メートル離れた木造平屋の寄り合い所で話をしていたところ、雷が落ちたような光に包まれ、入り口付近に立っていた女性が突然、建物の奥まで吹き飛ばされた。
近くに爆弾が落ちたと思い、慌てて家に戻ると、近所の家屋すべてが倒壊していた。自宅も壊れており、家にいた母の右のふくらはぎには三センチほどのガラス破片が食い込んでいた。
急いで自宅裏の山の畑に避難する途中、放射線を浴びたであろう上半身の皮膚がめくれた男性を見かけた。
火災は発生しておらず、父と二人、食料品などを取りに自宅へ戻った。自宅は緩やかな傾斜地にあり、自宅下の二階建ての家も倒壊していた。どこからか「助けて」という女性の声が聞こえた。声は大きな柱などが折り重なった奥から聞こえるようだった。
父も私も疲弊し、自分の身を守るので精いっぱい。身を切るような思いでその場を離れた。翌日、声の主の女性の姿を山で見かけた時には心が救われた。だが今でも「助けなかった」思いが消えず、悔いている。
九日午後、三菱電機長崎工場に勤めていた長兄が帰ってきた。当時は、爆弾が落ちた場所も定かでなく、旧長崎医科大(現長崎大医学部)に通っていた四番目の兄が戻ってこないので、父と長兄が捜しに出掛けることになった。
町が火の海となっていた夕方ごろ、父と長兄は地獄絵のような中を捜しに出掛けた。結局、兄は見つからずじまい。後に父も長兄も目を患い、父は失明、長兄はそれが原因で亡くなった。
<私の願い>
個人の欲望や国のエゴが押し通る社会であっても、心の底では平和でありたいと願い続ける人間であることを信じるほかない。