けたたましく空襲警報が鳴るたび、条件反射でずきんをかぶり、耳と目をふさぎながら防空壕(ごう)に逃げた。毎日駆け回ったトンボ捕りやボール遊びみたいに、いつからか自然と体に染み付いていた。敵機が上空を旋回し、隣り合っていた「死」を意識もせず、その意味も恐怖も分かるはずもない四歳の夏だった。
二世帯が住める長屋に両親と兄弟六人で暮らしていた。戦況の悪化で物資も少なくなり、造船の仕事をしていた父がたまに持って帰ってくるパンが何よりの楽しみだった。
あの日は午前中から日差しが屋根に照り返ってまぶしかった。遊び疲れたのか、生後八カ月の弟が昼寝を始めた途端、ものすごい爆風が家中を襲った。光はほとんど感じなかった。
「押し入れに入りなさい」。驚いておびえる私たちを母は急いで押し込み、家族で息を殺した。ずきんをかぶる余裕はなかった。ガラスを踏んだが痛みは感じなかった。
どのくらいたったのだろう。「米軍が上陸して殺されるから」と知り合いを頼って喜々津に逃げた。血だるまで歩いている人、横たわる死体、苦痛にゆがんだ声。この光景がどこまでも続く気がした。
日見峠に差し掛かると負傷者がトラックで運ばれていた。歩き疲れたので乗りたかったが、「どこに連れて行かれるか分からんぞ」と近くにいた人に止められた。そんな言葉に走り去るトラックが怖く感じた。
父とは翌日に再会し、家族全員がそろった。頭にぐるぐる巻かれた包帯が痛々しかったが、それをみじんにも感じさせない笑顔が今でも目に焼き付いている。
終戦の日に自宅に戻ると柱はゆがみ、戸は閉まらなかった。食べ物も少なく、貧しかったが全員が無事だったから家庭は明るかった。ただ、戦争が終わったと頭で理解はしても、体からはなかなか抜けなかった。しばらくは造船所や市役所などのサイレンが鳴るたび、条件反射で防空壕に急いで逃げた。逃げながらいつもこう思っていた。「また爆弾かもしれない」
(東彼)
<私の願い>
近所の人たちとの人間関係を大切にするなど、互いを思いやる気持ちがあれば戦争はきっとなくなると思う。