当時八歳。山里国民学校二年だった。長崎市茂里町の兵器工場に勤める父と母、姉、妹の五人、同市岡町で暮らしていた。
厳しい食糧難の時代。特に塩が不足していた。「専売公社の倉庫にいけば塩を分けてもらえる」と聞き、八月九日は母と二人、リヤカーを引いて塩の倉庫がある大波止へ向かった。
大波止の踏切にさしかかったころ、爆撃機二機が東から西の方向へ飛んでいくのが見えた。空襲警報は解除されていたので「日本の飛行機か」と思っていると、何か白い物を落としたのが見え、次の瞬間、ピカッと光った。とっさに頭をふさぎ、リヤカーの下に潜り込んだ。
どのくらい時間がたっただろうか。恐る恐る顔を上げると、街は一変し、がれきの山になっていた。電車は黒焦げになり、馬は立ったまま死んでいた。私は熱線を浴び、顔や腕、足にやけどを負った。
救護所になった新興善小で簡単な治療を済ませた後、電車通りは火の海で通れないことを聞き、西坂の二十六聖人の殉教地から穴弘法山を通り自宅へ向かった。浦上天主堂下の川にさしかかると、やけどで全身が膨れた人たちが次々と水に入り、もがいているのが見えた。ようやく山里国民学校にたどり着き、父と会えた。
自宅にいた十六歳の姉は倒れた家屋の下敷きになったという。父は助けようとしたが、周りの家が燃えていたため近づけず、そのうち、自宅からも火の手が上がり、姉は火に巻き込まれ死んでいった。三歳の妹は亡きがらも見つからなかった。
両親と三人で自宅近くの防空壕(ごう)に避難した。八畳一間ほどの広さに十人くらい入り、蓄えていた乾パンをかじった。傷がひどくない人もいたが翌朝、次々と亡くなった。
翌日、琴海町の母の実家に疎開した。やけどを治そうとしたが、薬も満足になく、ガーゼの下からウジがわいた。小学校に通えるようになったのは十月だった。一九五三年に他界した父は、姉を助けられなかったことを病床で悔やみ続けていた。
原爆の悲惨な体験を思い出すのが嫌で、ずっと口を閉ざしていたが、被爆者が次々と亡くなっていく今、風化を防ぐことが使命と考え、小学校や中学校で被爆体験を話している。「あの悲劇を二度と繰り返してはならない」と切に願う。
(西彼中央)
<私の願い>
兄弟姉妹八人のうち、戦争で四人を亡くした。一部の人たちが始めた戦争で、犠牲になるのは女性と子ども。原爆で顔にはケロイドが残り、健康への不安も消えない。核の平和利用は進めてほしいが、兵器にすることは絶対に許されない。