長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

ガラスで血だらけの姉

2004年5月13日 掲載
吉岡 昭夫(72) 吉岡 昭夫さん(72) 爆心地から3.6キロの今籠町(当時)で被爆 =長崎市愛宕3丁目=

旧制中学の二年生だった私は兵器製造に駆り出されていたが、九日の夜明けから警戒態勢で休みとなり、自宅で待機していた。天気が良い真夏の朝だった。連夜の空襲警報による緊張から解放され、今籠町(現在の鍛冶屋町)の自宅の真向かいにあった友人宅で将棋を指して過ごしていた。

いつもと違う飛行機の音が聞こえ、すぐに消えたかと思った瞬間だった。写真機のフラッシュが光ったような大きな光が格子戸に差し込み、生暖かい風がガラス戸を吹き飛ばし、ドドンと大きな音が響いた。

近所に焼夷(しょうい)弾が落ちたと思い、あわてて自宅に戻った。自宅の玄関のガラス戸は吹っ飛び、玄関で友人と立ち話をしていた女学生の姉がガラスで顔を血だらけにしていた。父母と姉の四人で崇福寺に造られた防空壕(ごう)に避難した。近くの大光寺の本堂に臨時の救護所が設置され、トラックでひっきりなしに負傷者が運びこまれた。私はすっかり恐怖におびえていた。

九日の夕方に崇福寺から眺めた万才町方面の光景が今も忘れられない。県庁や裁判所、学校などが燃え上がり火の海となっていた。多感な年ごろだった私には、夏の夕焼け空とも相まって黄金の巨大な建築物に見え、恐ろしいながらも美しい幻想に思えた。

ふと周りを見渡すと、私と仲が良かった育男君の母親が心配げに立ち尽くしていた。育男君は幸町の工場に兵器製造に駆り出されていた。夜中に帰って来た育男君は、浦上の惨状や立山を回って戻って来たことなどを伝えた。私たちは終戦の日まで防空ごう近くで過ごしたが、育男君は髪の毛が抜け落ち、高熱にうなされた。

終戦の翌日ごろ、時津村の親類宅に互いの安否を確認するため行くことになった。浦上方面は一面焼け野原で、浦上川沿いに白骨が転がっていた。火葬があり、死体を焼くにおいにむせ返った。
<私の願い>
悲惨な戦争を起こしてはいけないが、現実は難しい。国を動かすのは私たち国民。戦争は良くないと思うだけでなく、選挙などを通じ積極的に国をどうすべきか考え、悲劇を少なくするため良識ある行動を取ることが大切。

ページ上部へ