当時住んでいた西彼長与町の自宅近くの畑の中に、高さ十メートルほどの大きなカキの木があった。あの日、セミを捕ろうと木のてっぺんに登り、空を見上げていた。すると「太陽が爆発した」と思うほどの大きな光が突然、空を覆った。
「伏せ」。急いで木から下り、一緒にいた友達に叫んだ。浦上の方向には、真っ黒なきのこ雲が立ち上っていた。夕方になって、大橋に住んでいたおばが、子どもを抱えて逃げてきた。背負っていた子どもを母が下ろそうとすると、おばは「この子はもう生きていないから」と力なく答えていた。
その夜、魚雷工場で働いていた父が帰ってきた。血だらけで、小鼻に指が入るほどの大きさの穴が空いていた。翌日、父方の親せき六人も逃げてきたが、次々と亡くなり、毎日のように葬式を出した。
十一日早朝、母に連れられ、大橋に向かった。父の実家は、燃えて跡形もなく、近くの親せきも見当たらなかった。一日中捜し歩いたので、腹が減って仕方なかった。ごみだらけの井戸と分かっていたが、水を飲み空腹をしのいだ。焼けた電車の中にあった骨だけの遺体は、今でも目に焼き付いている。
十四日も、母とともに坂本町の母の実家付近を歩き回った。親せきは皆無事だったが、その後も数日おきに、坂本町に出掛け、粉じんやほこりが舞う焼け野原で過ごした。近くの畑で小さな芋を拾って食べたりした。
九月に学校が始まると、登下校の途中に、強烈な吐き気に見舞われた。病院で診察を受けても、原因不明と言われた。
その後の人生も、ずっと原爆が付きまとった。関節痛に悩まされた二十歳代、四十歳代には白内障。その後も、慢性肝炎、結腸がん、胃がんに侵され続けている。
病に苦しみ、闘い続けるのは私たち被爆者だけにしてほしい。
<私の願い>
核兵器廃絶は絶対に必要。あの日の悲惨な状況を風化させず、伝え続けなければならない。原爆は人類史上、長崎で終わりにしなければならない。国の原爆症認定申請が認められず、現在、係争中だが、生きているうちに助けてほしい。