被爆体験は家族にさえ話していなかったが、次代に残さねばとの思いで数年前、手記をまとめた。メモなどなかったが、当時のことは本当によく覚えていた。
一九四三年、長崎市の長崎高商(現在の長崎大経済学部)に入学し、同市片淵に下宿。入学から一年足らずで三菱重工長崎造船所に溶接工として学徒動員され、四五年八月九日も働いていた。
朝から空襲警報が鳴り、解除後、造船所内の建物二階にあった食堂で、長いすに横になっていた。同僚の食事をぼんやり眺めていると突然、部屋の中に閃光(せんこう)が走った。「溶接の光だろう」と気に留めなかったが、数秒していきなり「ウワー」と音ともつかない衝撃が襲った。
爆弾が落ちたと思い、慌てて机の下に転がり込み、頭を抱えた。どのくらい時間がたったのか、辺りが騒がしくなったので頭を上げると、同僚たちが訳の分からぬ叫び声を上げながら階段へ殺到していた。私も遅れて屋外に出た。下宿へ帰ろうと、近くにあった手こぎ船で海上を大波止に向かうことにした。
ふと浦上の方を見ると、入道雲のような原子雲がわき上がり、辺りは夕暮れのように薄暗く、対岸の建物や船が燃えていた。炎が海面に反射し、五色の絵の具を流し込んだようで、何とも言えぬ不気味な光景だった。
大波止にたどり着き、下宿に向かったが、県庁付近は一面火の海。引き返して長崎駅付近に迂回(うかい)した。電車が燃え、馬が倒れ、ぼろぼろの衣服で放心状態で歩く人々がいた。この世の地獄を見る思いだった。
午後一時ごろ、やっと下宿へ帰り着いた。下宿にはほかに四人の下宿生と、食事に来ていた医学生がいたが、誰も戻っていなかった。彼らを捜すため、浦上方面に向かった。
長崎駅から先はまったくの焼け野原。黒焦げの死体やかすかな声で水を求める人、皮膚の焼けただれた人などが脳裏に焼き付いている。あまりの光景に恐ろしくなり、あきらめて引き返した。
十日、勝山小(当時)の救護所でようやく、捜していたうちの医学生を見つけた。元気そうに見えたが、その夜一晩中「痛い」「水をくれ」と苦しんだ末、十一日の夕方には息を引き取ってしまった。
枕元に線香を上げ、念仏を唱えたが、あまりに多くの死にざまを見たせいか、涙も出なかった。
(大村)
<私の願い>
子や孫のことを考えると、いかなる理由があろうと戦争は避けるべき。核の悲惨さは体験者にしか分からないと思うが、今の核兵器は昔の何十倍の威力。想像もつかない。人類滅亡につながる核兵器は、絶対になくさなければならない。