西彼杵郡茂木町(当時)に両親や兄妹と暮らしていた。町内にあった日吉国民学校の六年生。夏休みだったので両親の手伝いをしていた。
八月九日の朝は、いつものように姉と二人で近くの山にまきを取りに行き、担いで家に帰る途中だった。大きなスギの下で休んでいると、警戒警報が鳴り響いた。その時、B29が私たちの頭上を通り、遠くの空に白いものがぷかぷか浮いているのが見えた。「あれ何だろう」と指さした瞬間、ぴかっと光り、目がくらんで辺りが真っ暗になった。初めて見る強い光だった。
途端に怖くなり、近くの森に隠れようと姉と走った。パーンというような金属音が聞こえ、森に着く途中で地面に身を伏せた。しばらくして家に帰り空を見ると、長崎方面の空が茶褐色に焼けていた。爆風で吸い上げられたのか、着物の切れ端や食器の破片、焦げた板切れなどがぱらぱらと落ちてきた。原子雲はどんどん大きくなって太陽の光を遮り、昼間なのに真っ暗になった。この雲が下りてくるのではないかと思い、怖くてたまらなかった。
夕方、長崎市内にあった逓信講習所の分校に通っていた二歳年上の姉が歩いて帰って来た。校舎内で被爆してガラスの破片を体に受けており、白いブラウスのあちこちに血痕が付き、痛々しかった。長与駅に勤めていた十二歳年上の姉は翌日、帰って来た。線路伝いに歩いて来たため、人を乗せたまま焼けた電車、黒く焦げた死体が道端にあふれている様子、立ったまま死んでいる馬など、見たことを生々しく話してくれた。それで原爆の威力を知ったが、二十三歳か二十四歳だった姉には大変なショックだったろうと思う。
原爆投下後には米軍が茂木の海岸から上陸してくるとのうわさが広まり、一時期は森に逃げ込んだこともあった。その後は家族で原爆投下前と変わらない生活に戻り、十五日には近所の人たちと玉音放送を聞いた。意味は分からなかったが、戦争が終わったのだと何となく感じた。
<私の願い>
原爆は人類史上最大の大量破壊兵器だと思っているが、今の国民や政府は原爆を二回も投下された重みを本当に分かっているのだろうか。原爆のことは絶対に風化させてはならず、語り継いでいかなければならない。