石川 司
石川 司(74)
石川 司さん(74) 爆心地から1.2キロの三菱製鋼所(茂里町)で被爆 =南高有家町堂崎=

私の被爆ノート

寒くて震え止まらず

2004年4月8日 掲載
石川 司
石川 司(74) 石川 司さん(74) 爆心地から1.2キロの三菱製鋼所(茂里町)で被爆 =南高有家町堂崎=

三菱製鋼所の養成工として戦闘機の脚部分を担当。当時十五歳だった。数日前の空襲で工場の機能はほぼ停止していた。八月九日は食事当番。容器を抱え、工場に戻ろうとした時だった。

青白い、射るような光線が目の隅に入った瞬間、記憶が途絶えた。再び目を開いたとき、そこはがれきの山。ようやくはい出すと、燃えるものは何もかも燃えていた。取りあえず城山町にあった寮に戻ろうと歩き始めた。

辺りには黒こげの死体が散乱。幼い子どもの亡きがらをしっかりと胸に抱き、幽霊のようにふらふらとさまよっていた母親がばたりと倒れ、そのまま息絶えた。人間の本能なのか、少しでも遠くへと逃げだそうともがく人たち。地獄というものがあるとすれば、まさにこの光景なのだろうと思った。

途中で友人と出会い、実家に帰ろうと思い直し、道ノ尾駅に向かって歩き続けた。夏なのに寒くて、がたがたと体の震えが止まらず、「ごめんなさい、貸してください」と言いながら道ばたの死体の上着を脱がして着込んだ。

水を飲もうと探した池は死体で埋まっていたが、かまわず口をつけた。汚染されていたのか、水を飲むたびに吐いた。のどの渇きには勝てず、また飲んでは吐く、それを繰り返しながら歩いた。駅の近くの六地蔵の所にがけがあり、竹筒から水が流れていた。不思議なことにそこの水だけは吐くことがなかった。

救援列車に乗り、諫早市の友人宅に一泊。翌朝血便が出るなど体調は最悪だったが、自宅に戻りたい一心で島原鉄道に乗り込んだ。車内でも気力だけで立っていたが、堂崎駅の一つ手前で空いた席に座るとそのまま眠り込み、気が付くと終点の加津佐駅。そこで一泊し帰り着いたのは十一日の朝だった。

自宅に戻ると、約二十日間意識を失った。高熱が続き、後で父親に聞くと、医者からは三日もたないといわれていたらしい。外傷はほとんどなかったが、体中に黒い斑点ができ、髪の毛が全部抜け落ちた。今でも貧血がひどく、少し食べ過ぎると下痢をする。あの日を境に、他の人たちには分からない苦痛に、今でも向き合いながら生きている。
(口加)

<私の願い>
どうして被爆地ナガサキで、イラク戦争反対の声が盛り上がらないのか。自衛隊が活動している地域の治安は比較的良いといわれているが、攻撃されれば自衛隊も反撃せざるを得ない。みじめな戦争はしてはいけない。一昨年、児童らに体験を話したが、皆真剣に聞いてくれた。大人になったとき、心の片隅にでもその記憶をとどめ、受け継いでくれればうれしい。

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