松尾 久夫
松尾 久夫(76)
松尾 久夫さん(76) 爆心地から1.1キロ、三菱兵器製作所大橋工場で被爆 =長崎市若竹町=

私の被爆ノート

弟、姉死に母の遺骨

2004年3月31日 掲載
松尾 久夫
松尾 久夫(76) 松尾 久夫さん(76) 爆心地から1.1キロ、三菱兵器製作所大橋工場で被爆 =長崎市若竹町=

「行ってらっしゃい」。あの日の朝、母が出勤する私にこう声を掛けた。それが母の姿を見た最後の瞬間になるとは夢にも思わなかった。

自宅は山里小近く。両親と姉、姉の子ども、弟二人と暮らしていた。私は、その日も勤め先の三菱兵器製作所大橋工場に向かった。

昼前、上半身裸のまま、作業台の前に立っていると、写真機のフラッシュが光ったような大きな光と音が後ろから襲ってきた。無意識に地面に身を伏せた。しばらくしてから立ち上がると、あったはずの工場の屋根は吹き飛ばされていた。空は黄色く濁り、ちりが舞っていた。

幸い、肩にガラスが刺さったくらいでけがはしていなかった。工場から家野町方向に逃げ、線路を渡り、音無町を経て、岩屋山に登った。自宅の様子が気になって、山を下った。途中、西町踏切付近でけが人を列車に積み込んだ。

山里小の運動場に足を踏み入れると、男の子が死んでいた。うつぶせで右足を曲げたまま。末の弟だった。顔は右側を向いたまま、頭に大きな穴があいていた。自宅に近づくと、隣の家人も黒焦げで死んでいた。

母や姉さんはどこに行ったのか。山里小の土手に掘っていた防空壕(ごう)に向かった。すると、姉が防空壕の壁にもたれて座っていた。体が冷たくなっていた。弟だけでなく姉まで。初めて悲しみが込み上げてきた。

母や弟、三歳くらいの姉の子を捜し回っていると、顔にガラス傷を負った女学生から「長与の家まで連れて行ってほしい」と助けを求められた。女学生を担架に乗せて、一晩かけて長与まで運んだ。

翌日、長与から東琴平にあった兄の家まで焼け野原の町中を歩いていった。兄の家で父と再会できた。それから、母たちの行方を捜して、父と市内あちこちの臨時救護所を回った。それでも、母たちの遺骨一つ拾うことさえ、かなわなかった。
<私の願い>
戦争中、「戦争は怖くない。絶対に勝つ」と精神的にコントロールされていた。だが、苦労ばかりだった母を思うと、米国への憎しみが込み上げてくる。現在のテロの連鎖の根元をつくったのは米国。普通の市民や子どもが被害に遭うことだけは許されない。

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