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私の被爆ノート

知人の消息捜し手伝う

2004年3月25日 掲載
小川 豊記(75) 小川 豊記さん(75) 爆心地から3.2キロの桜馬場町(当時)で被爆 =諫早市山川町=

北高飯盛町の出身。地元の国民学校を出た後、田結村(当時)役場で職員見習をした後、一九四四年二月から長工醤油味噌協同組合で働くことになった。工場は長崎市桜馬場町(当時)にあった。男性は兵役に取られ、工場で働いているのは女性と年寄りと子どもばかりだった。

あの時は、仕事が一段落し、工場の二階でほかの従業員と一息入れて雑談していた。何げなく窓の外を見ていると、立山の丘の上辺りが突然、真っ赤に燃え、目が痛むような光が見えた。直後にドーンと大きな音が聞こえた。経験したこともないような音と光だった。

窓のガラスは割れ、床の板はめくれ、壁から物が落ちてきた。工場に爆弾が落ちたようなものすごい衝撃で、誰かが「伏せろー」と叫んでいた。醤油(しょうゆ)の製造のため蒸気が立ち込める工場内は暑く、上半身は裸で作業していたが、気が付くとガラスの破片で胸を負傷していた。

工場の裏の防空壕(ごう)に避難した後、しばらくして工場の前の通りに出ると、諏訪神社の方向からやけどで体の皮膚がめくれた人たちが次々と逃げてきた。「長崎はもうおしまい」―。避難者の一人がそう話した。

昼すぎに寮に帰ると、お世話になっていたおばさんが「無事やったね」と声を掛けてくれた。近くにいた同郷の知人を訪ね、避難の荷造りを手伝った後、一緒に諏訪神社近くの防空壕で一晩を過ごすことにした。

壕には生死をさまよいながら、うめく人たちがいた。外の大きなモミの木の下では、男性が横たわっていた。体はやけどで腫れ上がり表情も分からない。「水をくれ」と男性が語り掛けるが、誰も見向きもしなかった。

翌日、同郷の知人と飯盛町に帰省。八月十三日に長崎に戻り、知り合いの消息捜しを手伝った。浦上方面を回ったが、一帯はまさに地獄絵の様相だった。知人の少女を見つけ、四人で担架に乗せて少女の自宅まで連れて行った。少女は背中を負傷していた。しばらくその家を離れ、戻ると、亡くなっていた。(諫早)
<私の願い>
イラク戦争の問題などが言われているが、戦争はどんな理由があるにせよ、絶対に起こしてはいけない。犠牲になるのはいつも女性や子どもたちなどの弱者で、いろんなしわ寄せがくる。平和に暮らし、支え合っていくことが大切だと思う。

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