長崎の社会/経済/スポーツ/文化のニュースをお届けしています

私の被爆ノート

けが人が列つくり避難

2004年3月18日 掲載
森内紀久子(72) 森内紀久子さん(72) 爆心地から約5キロの小菅町の自宅で被爆 =長崎市岩屋町=

当時、中学生で夏休み中だった。朝から警報のサイレンが鳴り響き、防空ごうに隠れていた。鳴りやんだので、小菅町の自宅に戻った。少しうとうとして、午前十一時には居間で昼寝をしていた。

原爆が落ちた瞬間のことは覚えていない。ただ、急に外が騒がしくなり、みんなが「爆弾が落ちた」とうわさしていた。そのうち「浦上に新型爆弾が落とされた」と聞き、けがをした人たちが列をつくって避難してきた。浦上方面から真っ黒い煙がどんどん家の方まで流れてきた。夜になっても空が赤く燃えていた。二、三日は燃え続けていたのではないか。

近所に大学病院に勤める看護婦がいたが、やけどを負って帰ってきた。とても痛そうで、かわいそうに思ったことを覚えている。体中のあちこちから血が出てて、目から汁みたいなものも出ていた。母に聞いたが、亡くなる時に口から血の固まりを吐いたという。とても哀れに思った。

わたしの家は原爆での被害はあまりなかったが、連日の空爆におびえていた。焼夷(しょうい)弾で近所の家が何軒も焼かれた。わたしの家もぼろぼろだった。ある日、家の中から外を見ていたら、低空で米軍の戦闘機が飛んでいった。兵隊の顔が確認できるほど近くを通った。後で聞いたが、その時は近くに焼夷弾が落とされていたらしい。あれは爆撃して帰る途中の戦闘機だったのかと思うと、とても怖かった。

八月十五日、終戦の知らせを聞いた。「よかったね」とみんなで言い合って喜んだ。原爆が落とされた後、血を吐いて死ぬ人の話を何人分も聞いた。一週間以上も苦しんで死んでいく人たち。子どもだったから何もしてやれなくて、今でもかわいそうに思う。もう二度とあんな思いはしたくない。
<私の願い>
かわいそうな死に方をする人を大勢見てきたので、もう戦争は嫌だ。イラク戦争も悲しい気持ちになった。世界には核を持っている国がまだ多くあると聞く。全部捨てて、二度と戦争はしてほしくない。

ページ上部へ