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私の被爆ノート

母と抱き合い無事喜ぶ

2004年3月4日 掲載
樋口美枝子(74) 樋口美枝子さん(74) 爆心地から1.2キロの茂里町で被爆 =長崎市彦見町=

当時、県立長崎高等女学校四年生。勤労奉仕で三菱兵器製作所茂里町工場に行っていた。警戒警報で逃げ込んでいた防空ごうから事務所に戻り、ほっとした瞬間、窓の外にせん光が走った。地鳴りとものすごい衝撃を受け、すぐに机の下に身を隠した。

しばらくして人の声が聞こえ、机の下からはい出すと、周囲は真っ暗。天井や四方の壁もすべて崩れていた。急いで防空ずきんや救急袋を身に着けて逃げ出した。背中から血を噴き出して道にうずくまっている工員や、建物の二階から助けを求める女学生を見たが、見て見ぬふりをして、その場を駆け抜けた。

聖徳寺のがけ下にあった防空ごうに入ると、中には多くのけが人がいた。私はけが人の手当てをしていたが、そのごうも危険だということで外に出た。だが工場も火の手が上がって戻ることができず、安全な場所を探し逃げ惑った。別の防空ごうに逃げ込もうとしても、中から焼けただれた肉のにおいやうめき声がして、恐ろしくて入れず、どぶ川を伝って家に帰ろうとしたが、足を取られ断念した。

夕方、長崎駅方面から自転車で男の人がやって来たのを見て、駅の方に行けることが分かった。駅までの道で、黒焦げの電車や足を上にして死んだ馬を見た。燃えずに残っていた五島町までたどり着き、ようやくほっとすることができた。

自宅は新橋町にあり、近所の日赤長崎支部に運ばれてきたけが人から、浦上は全滅と聞いた母は、私が死んだと思い半狂乱になっていた。家に帰った私は母と抱き合って無事を喜んだが、偶然通りかかった憲兵から「そんなに女々しいことをするから、日本は負けるんだ」と怒鳴られた。
<私の願い>
米中枢同時テロで、世界貿易センタービルに航空機がぶつかった瞬間を見て、原爆と同じだと感じた。テロでも、原爆でも人々は一瞬にして殺された。お互いに手を結び合うことがどうしてできないのか。解決策はいくらでもあるはず。私は長い間原爆の後遺症に苦しめられ、ほかにも生き残った人は苦労を重ねてきた。一刻も早く、世界から核兵器を始末してほしいと願っている。

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