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私の被爆ノート

無惨な姿の遺体を収容

2004年2月26日 掲載
中村 伊平(77) 中村 伊平さん(77) 爆心地から3.4キロの長崎市飽の浦町で被爆 =福江市奥浦町=

郷里で家業の漁業手伝いをしていた一九四三年、徴用のため三菱長崎造船所で働くことになり五島を離れた。

寮生活となり、配属先は造機艤装(ぎそう)工場に決まった。短期の作業訓練を経て、タンカーの突貫工事を徹夜続きでした。寮には朝鮮半島から徴用された人たちもいた。魚雷艇のエンジン取り付けなどを手掛けた後、次は航空機の部品製造をすることになり、その準備に入った。

あの日は作業場の一階で道具箱を作っていた。ふと窓越しに外を見ると、海岸に係留していた船舶から工員が「敵機来襲」と叫んで防空ごうに向かって駆け出した。異変に気付き作業場の玄関を一歩外に出た瞬間、強烈なせん光が走った。

一度その場で立ちすくんだ後、再び防空ごうへ逃げ込もうとしたとき、ものすごいさく裂音とともに体を二、三メートル吹き飛ばされ、側溝に落ちた。幸いかすり傷程度で済んだ。

新戸町にあった寮に戻ったのは夕方。敵機の襲来に備え、寮では寝起きせずに布団を運び出し、近くの山中に二日間野宿した。翌日、造船所から招集が掛かり、爆心地の浦上地区で原爆被害者の遺体の収容作業に当たった。

一面の焼け野原で、遺体は黒焦げたり、やけどで皮膚がただれるなど無残な姿だった。作業用の手袋、担架はなく、遺体は戸板に乗せて近くの学校の運動場に運んだ。身元が分からないまま何日たっても遺体を引き取る人が現れないと共同火葬された。三日連続で遺体の収容をし、あまりにも人の世は哀れだと痛感した。

終戦後間もなく、五島の父が鮮魚運搬船で長崎に渡り、ひょっこり寮を訪ねてきた。原爆が落ちて以来、消息が分からなかったため、父も母も私が死んだと思っていたようだ。大変驚いていた。そのころ長崎から五島へ向かう定期船は出ていなかったため、父と一緒に鮮魚運搬船に乗ってそのまま郷里へ帰った。(五島)
<私の願い>
核兵器保有国は核の恐ろしさを知りながら他国を威圧する。その根底には、弱者の立場を威圧し、強者の立場を保護する論理がある。核が使われると人類だけでなく自然破壊にもつながる。人類が互いに理解し合うために核兵器廃絶の輪を広げていくことに協力したい。

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