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私の被爆ノート

一瞬「死んだ」と思った

2004年2月12日 掲載
一瀬 理(79) 一瀬 理さん(79) 爆心地から4.5キロの西泊町で被爆 =長崎市界2丁目=

私は当時、胸膜炎を患い、予備校生活を送っていた東京から長崎へ戻り、実家で静養していた。

八月九日。自宅二階で休んでいると、飛行機の爆音がした。母と近くの防空ごうへ向かおうと話し、準備した。午前十一時二分。母と玄関を出ようとした瞬間、真っ白い光が目の前に広がった。

反射的に、その場に伏せた。母は、病の私を思ってか、覆うように伏せてくれた。一瞬「死んだのかな」と思ったが、爆風によるものか、家の中の畳が持ち上がっているのを目にして生きていることが分かった。割れたガラスが、畳に突き刺さるなどして雑然とした屋内を、母と妹、兄嫁が掃除した。

当時、旧鎮西中に通っていた弟の話では、九日は学徒報国隊の一員として長崎駅(現在のJR長崎駅)で作業中、空を飛ぶB29を眺めていたら急に光り、気付いたら体が燃えておりすぐに地面に体をこすり付け、消し止めたという。作業していた仲間の中には、亡くなった人も多かったらしい。

その弟を心配して待っていると、夕方ごろ帰ってきた。それまで気を張って歩いてきたのか、家に着くなり倒れ込み、しばらく高熱にうなされ寝たきりの生活を送った。

弟の帰宅後、山手の防空ごうへ向かった。長崎市街の方角を見ると、浦上の空が真っ赤に染まっていた。燃えているのは分かったが、状況が理解できなかった。

市街地からやって来る人は口々に、「ひどか爆弾の落ちたぞ」「浦上がやられた」と話していた。新型の爆弾だったことを知ったのは、後になってからだった。

原爆投下から一週間足らずで、終戦を迎えたが、何となく不利なのかなということは感じていた。その後、西泊にも米兵が上陸した。原爆を落とした国の兵士ではあったが、会話して親切にされ、複雑な気持ちを抱いたことが印象に残っている。
<私の願い>
一人の被爆者として、核戦争は起きてほしくない。世界の平和のためにも、軍縮をもっと進めるべき。国同士お互い助け合い、貧富の差がなくなるような状況が望ましいと思う。そのことが、人類の繁栄にもつながるのではないか。

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