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私の被爆ノート

「この世の終末」の思い

2004年2月5日 掲載
飛永 頼節(76) 飛永 頼節さん(76) 爆心地から1キロの長崎市西郷(当時)で被爆 =東京都小金井市=

当時、久留米工専の精密機械科二年。学徒動員で長崎市にある三菱の兵器工場で働いていた。

あの日は兵器工場寮の二階にいた。突然、「ボアーッ」という奇妙で強烈な音がした。次の瞬間、高熱のせん光と衝撃が全身に突き刺さった。「至近弾にやられた」との考えが稲妻のように頭をよぎり、意識を失った。

木造二階建ての寮は、ぺしゃんこに倒壊した。一階にいた生徒たちが家屋に押しつぶされ、うめき声や叫び声を上げていた。意識が戻り、体にのしかかる建材を押しのけて立ち上がると、衣服を焼かれた裸の女性が「キャーッ」と叫び声を上げて目の前を走り去った。久留米工専の一年生が顔面血だらけでぼうぜんと立っていた。目の上にガラスが突き刺さっている。私は窓際で横になっていたため、顔が窓側の方だけ焦げていた。

寮の周りは焼け野原。周囲の畑は葉っぱがなくなり、カボチャの実が燃えている。遠くの家が燃え上がっていた。何が起きたのかさっぱり分からない。「この世の終末」という思いがした。

近くにあった幅二メートルほどの溝に避難し、草の陰に隠れていた。夕方、溝を出て歩き始めた。遠くで「汽車が来たぞー」という叫び声。線路の方向に歩いて行く。焼け焦げた人が田んぼに顔を突っ込んで息絶えていた。累々と横たわる無残な死体。虫の息の人に水をせがまれたりしながら、貨車にたどり着いた。全身の力を振り絞って貨車にはい上がった。

貨車が到着したのは、幸運にも大村の海軍病院だった。診察を待つ行列に並んだが、待っている間に意識を失った。意識が戻り、診察を受けたのは翌朝。病院では数日間、被爆者が次々と死んでいった。自分の血尿が白い便器を染める。「次はおれか」。絶望的な気持ちで血尿を眺めた。

今も頭に刺さった小さなガラス片が時々、頭皮を破って表面に出てくる。そのたびに妻にピンセットで取ってもらっている。
<私の願い>
科学技術の進歩が人間を幸福にするとは限らないという当たり前のことに原爆で気付き、技術者ではなく、画家の道を歩む決心をした。核兵器は即座に廃絶すべき。悲惨な体験を語り継ぐとともに、風化を食い止め、永遠に忘れない日とするため、原爆の日を国民の休日にしてほしい。

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