犬塚 繁喜
犬塚 繁喜(74)
犬塚 繁喜さん(74) 投下翌日に入市 =佐世保市花高2丁目=

私の被爆ノート

孤独な死に胸が痛む

2004年1月29日 掲載
犬塚 繁喜
犬塚 繁喜(74) 犬塚 繁喜さん(74) 投下翌日に入市 =佐世保市花高2丁目=

小学校卒業後、大村海軍航空廠(しょう)に入隊した。「お国のために働きたい」との思いから志願した。当時は国民全体の気持ちが戦争へ向かっていた。

一九四五年八月九日。当時、十五歳だった私は、諫早市の発動機部工場で働いていた。油庫に油を取りに行った時、黄色い光が見えたと思うと、チクッとする痛みが肌を刺した。背中から爆風が吹き、西の空が真っ赤に焼けた後、上空が真っ黒くなって太陽が見えなくなった。そのときは何が起こったか分からなかったが、しばらくして「長崎がやられた」と聞いた。

救出活動のため、翌日、汽車で長崎市家野町の長崎兵器製作所へ向かった。長崎に近づくにつれ、建物の焼け方はひどくなり、汽車は進めなくなった。駅にはたくさんの人がいたが、不思議と静かだった。人々の顔はすすけ、洋服はぼろぼろ、やけどで皮膚が垂れ下がっていた。誰も話す気力がないようだった。

歩いて工場へ向かうと、一面、建物がつぶれ、工場の鉄骨が曲がり、道路は障害物で歩けないほどだった。到着した工場もぺしゃんこにつぶれ、はりなどにつぶされている人を運び出すのは容易ではなかった。救出しても亡くなっている人ばかりだった。

付近を歩いたが、さらに悲惨な状況だった。馬は馬車ごとひっくり返り、口から泡を吹いて死んでいた。川には人々が折り重なって死んでいた。橋の上にあった黒い塊も人だった。誰も供養してあげる余裕がなく、何日もそのままになっていた。

その日の朝に、元気に「行ってきます」と言って家を出た人たちが、家族に何も言えず、孤独な中、亡くなったことを思うと胸が痛んだ。

間もなく、日本は戦争に負けた。自分たちが国のために命懸けで働いてきたことは間違いだったのか。むなしさとやりきれなさは、しばらく消え去ることはなかった。
<私の願い>
核の威力が世界を牛耳っている今、日本も自衛隊をイラクに派遣するなど、その中に組み込まれてしまっている。世界の指導者は、核に対する罪悪感を持つべきだ。核による犠牲は私たちだけで結構。核兵器が二度と使われることがないよう、国民は声を上げていくべきだ。

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