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私の被爆ノート

防空ごうに響くうめき声

2004年1月22日 掲載
藤田 ヤス(89) 爆心地から3.3キロの本下町(現在の築町)で被爆 =長崎市三ツ山町=

当時、長崎貯金局に勤務。「もうすぐお昼だな」とほっとしたとき、大音響とともに鋭い光が走った。四方の壁が崩れ、私の机の上にあった書類が全部舞い上がった。従業員はほとんどが十二、三歳の女の子で、「お母ちゃん」と泣き叫びながら階段に殺到した。

私も一緒に外に出ると、さっきまで真っ青だった空は一面の黒い煙に覆われていた。道沿いにあった水道は一つ残らず倒れ水を噴き上げ、倒れた木製の電柱の先端から火が立ち上っていた。道に転がり助けを求める人もいたが、私は目もくれずに諏訪神社近くの防空ごうに向かった。

坂を上っていると、皮膚が焼けて垂れ下がった少年たちが下りてきた。ごうの入り口に着くと、中からワーンという響きが聞こえてくる。ろうそくの火を頼りに中に入ると、消毒薬と血のにおいが充満。何かにつまずくと悲鳴が上がり、けが人が寝ているのに気付いた。暗闇に目が慣れてくると、たくさんの人が倒れ、うめいているのが見え、入り口の響きはその人たちの叫び声だったと分かった。

ごうの中に担架が担ぎ込まれてくるたび人々が立ち上がり、運ばれた子の名前を呼ぶ声を上げた。「自分の子どももどこかでけがをしているのではないか」と泣き叫ぶ母親や、それをなだめる人が右往左往する影が、ろうそくの光でごうの壁に大きく映し出された。まるで地獄を見ているような光景で、今でも忘れることができない。

数時間後、外に出ると、いつの間にか夜になっていた。夏の冷たい風が通りすぎた瞬間、ようやく自分は助かったのだとわれに返った。小高い丘から長崎の街を見ると、握りこぶし大の火が一面にゆらゆらと揺らめいていた。その火の下では、たくさんの人が焼け死んでいたのだろうと思う。
<私の願い>
インドとパキスタンが核実験をしたとき、とても複雑な気持ちになった。両国の人々が喜んでいたが、あの惨劇を知らないから喜ぶことができたのだろう。平和を守るためには、戦争以上のエネルギーが必要。核兵器や核戦争は絶対あってはならない。原爆肯定論もあるが、浦上川に死体が重なり合っている光景を見た者の責任として、これからも核兵器廃絶を訴えていきたい。

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