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私の被爆ノート

思い出の校舎燃え悔しく

2004年1月14日 掲載
皆良田トシ子(83) 爆心地から3キロの新町(現在の興善町)で被爆 =長崎市三ツ山町=

夫は出征中で、子どもを疎開させ、両親と一緒に旭町に住んでいた。勤務先は新町(現在の興善町)にあった長崎女子商業学校で、保健体育を教えていた。そのころ学生たちは三菱の関連会社などに報国隊として派遣されていたため、教師は学校に待機し、時折派遣先を回っては生徒たちの様子を見回るなどしていた。

八月九日も、いつも通り旭町から市営交通船に乗って大波止まで向かい、大波止から学校まで歩いた。学校では三日前に広島で落ちた原爆が話題になり、新聞が「広島壊滅」と報じていたため「よほどひどかったとね」などと話していた。その時、職員室がピカッと光った。女性の先生が「焼夷(しょうい)弾落下」と叫び、わたしは窓から運動場へ飛び出した。空を見上げると、新興善小の上に原子雲が見えた。雲は光り輝いて虹色にも見え驚いていると、強い爆風で吹き飛ばされ、ガラスの破片で顔や腕を切った。

校舎は倒壊したが教師たちは軽傷で、手当てのため救護所のある新興善小に向かった。途中で体中に水ぶくれができている郵便配達の男性を見て、「私たちが救護所に行くべきではない」と話し、女性の先生ばかりで学校の敷地内にある防空ごうに入った。夕方に様子を見に来た近所の人が「ここにいたら危ない」と言うので、一緒に立山にある防空ごうに向かい、どこからか燃え移った炎に校舎が包まれる様子をじっと見ていた。教師と生徒の思い出が詰まった校舎が燃え、悔しくてたまらなかった。

夜遅く、大波止から手こぎの船に乗って自宅に向かった。同乗した人から一人の生徒が派遣先の三菱の工場で死んだと聞き、帰宅する前に丸尾町にあった工場に向かった。遺体は生徒の父親が引き取ったと言われ、胸が張り裂ける思いだった。

十日は学校近くにある教師の自宅に集まり、生徒のことなど分かっているだけの情報を伝え合った。学校の今後も話し合ったが、校舎が壊れたためどうすることもできず、終戦後しばらくして桜馬場にあった市立女学校の教室を借りて授業を再開したことを覚えている。
<私の願い>
入所している恵の丘原爆ホームでは、朝や食事前など一日に何度か祈りの時間がある。そのたびに「戦争がなくなりますように」と祈っている。人間の闘争心が戦争をさせるのだろうか。戦争は一般の人々が苦しむだけ。日本だけでなく世界も十分分かっているはずなのに、なぜなくならないのか不思議でならない。

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