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私の被爆ノート

灰色の町に多数の遺体

2004年1月8日 掲載
橋田 良明(67) 爆心地から3.2キロの磨屋町で被爆 =島原市柏野町=

当時八歳で小学三年だった。あのころのことは断片的にしか覚えていないが、残っている記憶は極めて強烈だ。

あの日、夏休み中で姉、兄、妹と四人で磨屋町の自宅にいた。父は住吉の兵器工場、母は田上に疎開先を探しに行き留守だった。突然、「ピカッ、ドン」ときて、障子やふすまがばたばたと倒れ、神棚が落ちた。何があったか分からないままおびえた。

しばらくして「表に出て逃げろ」という町内の人の声が聞こえた。四人で一目散に二百メートルほど離れた小学校の防空ごうに走った。着いて間もなく、風頭山の防空ごうに移った。無心で歩いた。ふと長崎駅の方角を見ると、灰色の煙が立ち上っていた。

夜中に、逃げてきた父が防空ごうにたどり着いた。家屋の下敷きになった人を何人も助けたと話していた。後日、みんなで自宅に戻った。母といつ再会したか覚えていないが、幸いにも無事だった。

十日ほどして「とにかく今回の爆弾は威力が違う。見に行こう」ということになり、父と手をつないで浦上方面に向かった。白黒の風景が広がっていた。家屋の燃え残り、炭になった柱、焼け野原。町全体が灰色だった。手を引かれ、ぼうぜんと歩いた。父とどんな会話をしたのだろうか。

浦上付近の情景は、特に鮮明に脳裏に焼き付いている。牛や馬が四本の足を天に向けて死んでいた。茶や黒の多数の人間の遺体も見た。座ったままだったり寝転がっていたり。すべての人の死んだ格好が違っていた。その脇を汚れた服装の人たちが、うなだれて歩いていた。そこから先のことは忘れてしまった。

被爆したことは人の目が気になってあまり語ってこなかった。差別や偏見は確かにあったと思う。体調は良くないが、何とか今まで生きてきた。(島原)
<私の願い>
核兵器の保有、所持は絶対反対。戦争ももちろん容認できない。しかし、自衛隊のイラク派遣など世界に合わせないとならない面もある。日本は世界に頼って成り立っている。自分の中でも矛盾がある。とにかく政府は原爆や大戦のことを思い出して慎重に対応してほしい。

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