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私の被爆ノート

本校舎に消毒剤のにおい

2003年12月25日 掲載
上田 正利(62) 爆心地から2.8キロの本興善町で被爆 =長崎市弁天町=

七人兄弟の末っ子で、四歳の私と母だけが自宅に残っていた。自宅の玄関の下に防空ごうが掘られ、大きな空襲があると町内全体で諏訪神社の上にあった防空ごうに避難していたことを覚えている。

八月九日は、母が昼食の準備をしているのを見ていた。原爆が落ちた瞬間のことはよく分からないが、爆風で玄関が半壊するなど自宅も被害を受けた。しばらくして、母に背負われて諏訪神社近くの防空ごうに向かった。その途中、長崎駅方面からけがをした人が逃げてきたのを見た。

けがをした人は元気な人に肩を担がれていたが、やけどがひどく、とても正視できない姿だった。頭から血を流していたり、衣服が焼けただれてぼろぼろになっていた。長崎駅から勝山方面に逃げていたが、みんな余裕がなかったのだろうと思う。母や大人たちは三日前に広島に落ちた新型爆弾と同じものが落ちたと分かっていたのではないだろうか。

一九四八年、新興善小に入学。だが当時、校舎が被爆者の救護所に充てられていたため、皓台寺が仮校舎だった。二年生の時、本校舎の裏手に木造の仮校舎が造られ、四年生までそこで過ごし、五年生になってようやく本校舎に移った。

救護所は既に撤退し、校舎内には消毒剤がまかれていたが、そのにおいがとてもすごかった。校舎の雰囲気も薄暗く、多くの被爆者が亡くなったと聞いていたので、何となく気味の悪さを感じた。体育館の裏手に救護所として使われた地下室の入り口があったが、火葬用の資材が置かれたままで、児童の間で死んだ人の幽霊が出るなどのうわさになった。暗くなると怖くなり、一人で行くことができなかった。
<私の願い>
現在も核兵器を持つ国が増えており、長崎、広島からの平和を訴える声が世界に理解してもらえているのだろうか。このような状況に対しては、被爆者の証言を残したり、高校生一万人署名活動といった地道な活動で核廃絶を呼び掛けていく必要があるだろう。原爆を知らない日本人や外国人には、長崎原爆資料館や国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館などに来てもらい、平和への関心を呼び起こすようにしなければならない。

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