坂下マツミ
坂下マツミ(73)
爆心地から0.7キロの長崎医科大学付属医院で被爆 =北松小佐々町黒石免=

私の被爆ノート

手術の痛さ今も脳裏に

2003年12月18日 掲載
坂下マツミ
坂下マツミ(73) 爆心地から0.7キロの長崎医科大学付属医院で被爆 =北松小佐々町黒石免=

当時十五歳。長崎医科大の看護婦養成所の実習生として、同大付属医院に勤めていた。九日もいつも通り朝から勤務していると、空襲警報が鳴ったので、医師や看護婦、入院患者らは地下室に急いで避難した。その後、警戒警報に切り替わり、それも解除になったので病棟に上がった。

同僚と二階の看護室にいると、聞き慣れない飛行機の音がし、「変な音がするね」と言葉を交わした途端、窓から目がくらむような光を浴びた。とっさに耳と目を押さえ床に伏せた。そのまま気を失ったようだ。

どれくらい時間がたったかは覚えていないが、体が熱いのに気付いた。熱さは自然と収まったが、体は崩れたコンクリート片に覆われ身動きが取れない。がれきを少しずつ揺らすと、すき間から光が差し「助かるかもしれない」と思い少しずつコンクリート片を動かし、はい出た。

その日は、医院裏の小高い山で過ごした。ふと右腕を見ると、十センチほどの窓の木枠が刺さっているのに気付いた。逃げるのに必死で痛みなどは感じなかった。夕方、誰かがおにぎりを持ってきてくれたり、先生が沸かした水を飲ませてくれたことを覚えている。

翌日、三ツ山町の先輩宅に同僚と三人で向かった。棒をつえ代わりに、五時間かけて歩き着いた。どこをどう歩いたかは覚えていないが、会う人は息絶え絶えの人が多く、風が吹くとただれた皮膚がなびく人もいた。家族を亡くして泣く男の子の姿が印象深い。

四、五日後、同医院の放射線科に勤めていた永井隆氏が「医院の看護婦がいる」と聞きつけ、訪ねてきてくれた。腕を診てもらうと、木切れが腕の中にあるのが分かり、取り除いてくれた。当然、麻酔なしでの処置。あの時の痛さは今も忘れない。

一週間ほど過ごしたころ、先輩の父親が近くの駅で切符を買って列車に乗せてくれた。汽車を乗り継いで小佐々町の実家に戻ったが、九月ごろ、歯茎から出血して福岡の病院にしばらく入院。翌年、元の仕事に戻った。

あの時の体験は忘れようと思っても、脳裏に焼き付いて忘れることができない。(江迎)
<私の願い>
あの体験から長い間「思い出したくない」「話したくない」と思っていたが、最近ようやく話せるようになった。それだけ強烈な出来事だった。絶対に核兵器は使ってはいけない。造るのをやめてほしい。

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