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私の被爆ノート

つらかった遺体収容任務

2003年12月11日 掲載
鶴岡 利男(76) 鶴岡 利男さん(76) 爆心地から2.4キロの長崎市立山町で被爆 =対馬美津島町竹敷=

当時十八歳。県警察警備隊に配属されたばかり。警戒警報を受け、長崎市立山町(現立山一丁目)の警備隊詰め所で待機中だった。

窓からカメラのフラッシュのようなせん光を浴びた。すぐに「ゴー」という地震のような震動を感じた。続いて「ドーン」という低い音が響いた。窓ガラスが割れ、部屋の中はめちゃくちゃになった。やぐらの上で警戒に当たっていた同僚二人は吹き飛ばされた。

すぐに人命救助の命令が出た。浦上方面に向けて出動したが、長崎駅付近は油が入ったドラム缶が爆発するなど火の海状態で通行できなかった。命令で丸山町方面に向かった。真っ黒に焼けただれた人々が歩いていたり倒れていた。目だけが白く光っていたのを覚えている。

移動中、県庁が燃えているのを見た。「消防車は敵の標的になる」との理由で消火活動が禁じられ、消火はあきらめた。火は県庁から大波止や諏訪神社方面に燃え広がっていった。思い返せば「あの時消火していれば」と悔やまれる。

丸山町の女子挺身(ていしん)隊の寮で約二十人の隊員を助けた後、立山の監視隊本部に戻り、トラックで浦上方面に向かった。

浦上は遺体の山だった。生きている被災者をトラックに乗せ、各学校に運んだが、ほとんどの人はすぐに死んでいった。任務は遺体収容に切り替わった。それから一週間、浦上から道ノ尾の斜面地帯を中心に昼夜を問わず走り回った。

遺体収容はつらい任務だった。四、五日たつと遺体は腐り始め、うじがわいた。手や足を引っ張ると皮がずるりとむけた。遺体から漂うにおいは耐え難く、息苦しかった。浦上の海軍倉庫の中に保存されていたアルコールを飲み、感覚をまひさせて任務に臨んだ。 十五日、警備隊で玉音放送を聞いた。その日のうちに除隊した。多くの同僚が隊を離れ故郷に帰った。私も博多港経由で対馬に戻った。

いくら時間が経過しても、遺体回収で体に染みついた、あのにおいを忘れることはできない。(対馬)
<私の願い>
イラク情勢や北朝鮮の軍事的脅威を背景に憲法改正が論議されているが、また同じ道を歩みかねない危険性をはらんでいる。戦争の悲惨さを忘れてはいけない。二度と原爆を繰り返してはならない。

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