鶴田 清人
鶴田 清人(76)
爆心地から1.2キロの三菱長崎兵器製作所(茂里町)で被爆 =佐世保市田の浦町=

私の被爆ノート

感じたのは恐怖だけ

2003年12月4日 掲載
鶴田 清人
鶴田 清人(76) 爆心地から1.2キロの三菱長崎兵器製作所(茂里町)で被爆 =佐世保市田の浦町=

旧制中学を卒業した私は一九四五年七月三十一日、佐世保市内の親元を離れ、長崎工業経営専門学校(現長崎大経済学部)に入学した。だが、アカデミックな雰囲気での喜びもつかの間だった。翌日から三菱長崎兵器製作所への勤労動員が待っていたからだ。中学時代の、佐世保海軍工廠での一年以上にわたる動員に続いての工場勤務。私たちの青春にはロマンチックな感傷に浸る時間も空間もなかった。

八月九日は朝七時十分ごろ、現在の古川町にあった三菱磨屋寮を出て職場に向かった。晴れ上がったすがすがしい朝だった。配属された茂里町工場は、魚雷の生産で多忙を極めていた。

「何だろう、電気のスパークかな」

工場の赤れんがの壁の上の窓から、青白く少しピンクがかったせん光が走った。一瞬、目の前の映像が止まった。工場の中にいた人たちがスローモーションのように、ふわふわと倒れる姿が目に映った。そして建物のあらゆる部分がばらばらになり、ゆっくり崩壊していった。

どのくらいの時間だったのか分からない。火が回ってくる恐怖、次の爆弾が降ってくる恐怖に襲われながら、二階から落ちてきた鉄骨をよじ登ったり、くぐったりして必死で外へと逃げた。

体は血だらけだった。周りの人は背中がパックリと割れたり、腰から皮膚がぶら下がっていた。巨大な鉄骨の下敷きになって押しつぶされている人もたくさんいた。その中には同じ年ごろの女性の姿があった。私と同じように彼女も動員されてきたのだろうか。助けてあげたかったが、とても人力で持ち上げられる大きさではなかった。

周囲の建物は爆風で消えていた。学校の方角を目指し、山に向かった人々の後を無我夢中で追った。こんな広範囲の無茶苦茶な爆弾の二発目が、いつまた落ちてくるか気が気でなかった。今度落ちてくれば最後だ、できるだけ山の向こうに逃げよう―。感じたのは恐怖だけだった。

山の上で学友と会った。鉄粉と油で顔は真っ黒になり、その上に血のりが固まっていた。私も同じ姿だった。眼下の惨状を見て、日本はこれで最後だと思った。
<私の願い>
あの日の惨状を世界の指導者らによく知ってもらいたい。そうすれば核の使用をためらうはずだ。異文化を理解し合う以外に世界を救う道はない。

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