佐藤 寅雄
佐藤 寅雄(79)
佐藤 寅雄さん(79) 爆心地から0.7キロの長崎市坂本町で被爆 =秋田県平鹿町=

私の被爆ノート

熱線で焼けただれた医師

2003年11月27日 掲載
佐藤 寅雄
佐藤 寅雄(79) 佐藤 寅雄さん(79) 爆心地から0.7キロの長崎市坂本町で被爆 =秋田県平鹿町=

当時陸軍の船舶兵で、長崎―福江間の軍物資輸送の任務に就いていた。一九四五年五月、福江で荷揚げ中、米国の戦闘機の攻撃を受けた。頭に軽傷を負った私は、長崎医科大付属病院に重傷者二人とともに入院。部隊長から回復後も、看護兵として病院に残るよう命令された。

病院では地下の薬品倉庫に重症患者を収容。八月九日は倉庫内で、医師や看護婦が患者の包帯を換えるのを手伝っていた。そこに大きなさく裂音がし、明かり取り用の窓の外が真っ暗になった。建物が崩れる音を聞き、とっさに病院に直撃弾が落ちたと思った。

三、四十分後、ようやく外に出てみると、街は全部燃え、建物はなくなっていた。電車が倒れ、中の人は真っ黒焦げになっていたり、胴体が膨張し真っ黒に焦げた馬が倒れているのを見た。三日前に広島に新型爆弾が落ちたと聞いていたので、同じ爆弾だと感じた。

病院の裏にあった防空ごうに逃げ込むと、そこには熱線を浴びて焼けただれた医師や看護婦、入院患者がいた。付き添っていた戦友も全身がひどいやけどで、防空ごうに運び込み手当てをしたが、九日午後四時ごろに息を引き取った。

その後、焼け残った病院の一階で生き残った患者が治療されることになり、私も手伝うことに。治療といってもてんぷら油を塗る程度。焼けただれ腐った部分にウジがわくので、私はピンセットでそれを取り続けた。半身焼けた人はしゃべる元気もなく、看護婦はみな泣いていた。

十三日に門司の部隊本部に帰隊。二日後に終戦を迎え、私たち初年兵はすぐに解散させられた。故郷の秋田に帰る途中、広島に立ち寄ると一面焼け野原で、長崎よりひどいと思った。
<私の願い>
核兵器を持っている国はまるで英雄のように振る舞っているが、私としては今でも核兵器が造られていること自体が恐ろしい。原爆の放射線による影響は今でも被爆者を苦しめ続けている。戦争や原爆は二度と体験したくない。みんなが楽しく暮らせるようになればと願っている。

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