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私の被爆ノート

真っ黒焦げの無数の遺体

2003年11月20日 掲載
立木 實夫(76) 立木 實夫さん(76) 爆心地から1.2キロの三菱製鋼所(茂里町)で被爆 =五島有川町有川郷=

福岡県立小倉工業学校(現県立小倉工業高)を卒業後、浜口町に下宿しながら茂里町の三菱製鋼所に勤務。第二工場内のプレハブ事務所で、船舶のスクリューやエンジンの部品などを製造する機械の設計を担当していた。事務所には工場長以下約二十人がいた。

あの日は午前八時ごろ出勤。九時ごろに空襲警報が鳴り響き、スタッフと一緒に竹の久保町の防空ごうに逃げた。

間もなく警報解除を知らせるサイレンが聞こえて事務所に帰ると、「ブーン」という音が聞こえた。「また飛行機が飛んでいないか」。スタッフとこんな話をしていたら突然、太陽が落ちてきたような強烈なせん光が走った。「ドカーン」という強烈な爆音とともにガラスが割れ、工場の屋根が崩れ落ちた。そこで意識をなくした。

しばらくして女性の悲鳴で意識を取り戻した。辺りは真っ暗。崩れ落ちた屋根のすき間から漏れる明かりを頼りに外に出ることができた。幸運なことに、工場を支えていた大きな鉄柱のそばだったので屋根の直撃を免れ、ほとんど無傷だった。

外は全く別世界。周辺の建物がなくなり、長崎港が見えていた。浦上川伝いに道ノ尾方面に走って逃げた。そこで見たのはまさに地獄絵図。特に大橋までがひどく、真っ黒焦げの無数の死体が転がり、皮が垂れ下がった人もいた。建物も炎に包まれていた。川面に浮いた赤ちゃんの死体を今でも忘れられない。

大橋で「道ノ尾に行け」と叫ぶ男性がいて、その通りに逃げた。道ノ尾駅で汽車に乗り、諫早駅で降りた。近くの女学校にたどり着いたが、ひん死の重傷を負った人らで体育館は満員だった。

長崎師範学校(現長崎大教育学部)一年だった弟が気になり、翌日、学校を訪ねた。避難場所の長与小体育館で無傷の弟と再会。五島に帰る船を確保するため弟に「ここを動くな」とだけ伝え、市内に戻った。

市内で玉音放送を聞いて戦争に負けたことを知った。それから数日後、五島から捜しに来ていた父と偶然にも再会することができ、弟や同郷出身者の約十人で五島に帰った。あの工場の事務所のスタッフの消息は今でも分からない。
<私の願い>
各国の事情は違うが絶対に戦争はしてはならない。問題の解決方法を戦争に委ねることはあってはならない。戦争を知らない人のため、命ある限り語り継ぎたい。それが私の責務だ。

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