橋本 勝彦
橋本 勝彦(73)
爆心地から約1.1キロの長崎市家野町で被爆 =東彼川棚町中組郷=

私の被爆ノート

4カ月間寝たきりで闘病

2003年11月13日 掲載
橋本 勝彦
橋本 勝彦(73) 爆心地から約1.1キロの長崎市家野町で被爆 =東彼川棚町中組郷=

恩師から「先生にならないか」と勧められて長崎師範学校(現長崎大教育学部)に入学した。諫早の親元を離れて約半年たった十四歳の夏だった。

寮生活はきつかった。夏休みはなく、県内各地から集まった寮生が数日帰省して持ち寄る土産の食料が一番の楽しみだった。毎日ラッパの音で起床し、何時間も教練(軍人教育)の授業があった。「先生じゃなく軍人になるのかもしれない」。戦況が悪化するにつれて心の中が少しずつ変化していた。

「あれは友軍機か、敵機か」

その日の午前中も運動場で教練の授業だった私たちは、教官の言葉に空を見上げた。何もない運動場は強い日差しでうだるように暑かった。警戒警報だったため、生徒の一人が「あれは友軍機です」と答えた瞬間だった。稲妻のようなせん光がほとばしったが、音は聞こえなかった。どのくらいたったのだろう。目を開けると辺り一面霧のような白煙が立ち込めていた。

「広島に落ちた新型爆弾では」。うわさになっていたことを思い出したと同時に校舎の方に逃げだした。少し視界が開けたが、分厚い空気の渦の中を泳ぐようで苦しかった。足にはくぎが突き刺さり、抜くと血が噴き出した。肌が出ていた背面の首回りや手、足の一部は水膨れになっていた。まだ痛みはなかった。

いったん防空ごうに隠れ、午後から長与小学校を目指した。血だるまで歩いている人、黒焦げの死体、転がった馬。この光景がどこまでも続く気がして怖かった。

翌日、諫早の自宅に戻り両親と再会。喜ぶ間もなく、苦しい闘病生活が始まった。背中のやけどがひどく、うつぶせで約四カ月間寝たきりだった。うわさで「あの人も亡くなった」「頭がはげたそうな」と聞くたびに、自分もそうなるのかと気がめいった。そんなとき、母が「すぐ元気になるからね。大丈夫よ」とイワシの内臓を煮詰めて食べさせてくれたことが今でも忘れられない。

奇跡的に回復し、再び先生を志すことに。二十二歳で小学校の教壇に立った。子どもたちには平和のありがたさをまず伝えたかった。
<私の願い>
平和の基本は仲良くすること。家庭や友達、みんなとの人間関係を大切にしてほしい。そうすればいじめもなくなる。

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