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私の被爆ノート

あちこちで死体焼く煙

2003年11月6日 掲載
高野 国雄(78) 入市被爆 =佐世保市中里町=

旧制長崎工業学校を卒業後、陸軍特別幹部候補生として、愛媛県松山市の教育隊に入った。四カ月間の教育を受け、一九四四年に兵庫県加古川市(当時は加古川町)の飛行隊に配属され、戦闘機の整備をしていた。部隊では特攻機で急降下し軍艦に突っ込む訓練をしており、沖縄に向けて毎日出撃していた。

長崎に新型爆弾が投下されたことは部隊の宿舎に張ってあった新聞で知った。「長崎に新型爆弾。被害は極めて軽微」と書いていたのを鮮明に覚えている。終戦後、長崎と広島の出身者は早く帰郷することが許され、列車で長崎に向かった。そのときは理由は伝えられなかったが、悲惨な状況になっていることが分かっていたのだろう。

途中に通った広島の街は一部を残して焼け野原だった。広島にも原爆が落とされたことは知らなかったが、長崎も同じようになっているのではないかと不安になった。

長崎に着いたのは八月十七日だったと思う。道ノ尾駅を過ぎてからは、あちこちで死体を焼く煙が上がっており、建物はほとんどなかった。上半身が裸で、背中が干割れた田んぼのように裂けた人も見た。大橋の三菱兵器製作所はぐにゃぐにゃに曲がった鉄骨だけが残っていた。長崎駅の手前にあるガスタンクがものすごく燃えていた。駅前は火がくすぶっていた。

長崎駅から勝山町、諏訪神社の前を通り、実家のある西山まで歩いたが、人はあまりいなかった。残っていた母と姉、弟は無事だったが、家の二階の窓はガラスが割れ、枠だけが残り、屋根も壊れて空が見えるようになっていた。

片淵に住んでいた同級生の中村君に会いに行くとき、長崎高商の寮の中庭で毎晩のように死体を焼いていたことも覚えている。実家に居候していた女性が家族の無事を確認するため城山町に行くというので同行したが、家があった場所には何もなく、女性の家族も見つからなかった。
<私の願い>
原爆は使ってはいけない。悲惨な状況を目撃しているので、戦争はもう二度としてほしくない。年も取ったし、平和に暮らしたい。

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