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私の被爆ノート

川に着いて友人は絶命

2003年10月23日 掲載
小玉 輝幸(72) 爆心地から1.2キロの三菱兵器大橋工場で被爆 =南高口之津町乙=

地元の尋常高等小学校を卒業後、三菱の青年学校に通おうと長崎に行った。だが、実際には仕事ばかりで勉強らしいものはほとんどなく、大橋の兵器工場で魚雷部品の鋳型を作っていた。十四歳だった。

空襲警報が解除されたので工場に戻り、仕事を再開しようとした時だった。「ピカッ」。稲妻のようなものすごい光が見えた瞬間、襲ってきた爆風と熱で体がたたきつけられた。腹ばいのまま数メートル滑ったようにも思えた。混濁していく意識の中で、母代わりの叔母や祖母の顔ばかりが浮かんできた。周囲のうめき声でぼんやりと目を開けると、屋根の鉄骨は折れ曲がり廃虚になっていた。死んでしまい、別の世界に来たのかと思った。

よろけながらなんとか体を起こすと、周囲には頭といわず顔といわず血だらけの人、人、人。自分も左腕が動かず、背中にもけがをしていたのは分かるが、確かめることができない。工場は次第に火の手が強くなり、とにかくここから出ようと歩き始めた。

「おれをからって(背負って)くれ」。ひどいけがをしていた五島出身の寮の同室の友人が声を掛けてきた。二人で水を求め、浦上川にたどり着くと、友人は、ばたりと倒れるように顔を水面に付け、そのまま動かなくなった。助け起こそうとするが、どうしても力が入らない。友人はそのまま絶命した。

死体の山になっている川の中を歩き続けた。背中の傷が気になり、兵隊に聞くと「このくらいの傷でなんか」と殴られた。その後、擦れ違った女性に尋ねると「大したことはありません。もう血も止まっています」と教えてくれ、三角きんと風呂敷で手当てをしてくれた。「元気を出して頑張って」と励ましてくれた。その女性のことは、今も忘れない。

「歩ける者は線路に向かえ」。誰かの声に、また歩き始めた。やっと乗れた列車の中でも「血を止めてくれ」「苦しい」と、あちこちから声にならない声が車内を包んでいた。諫早の救護所に八日ほど滞在、終戦もここで迎えた。連絡を受け飛んで来た父と抱き合い、声を上げて泣いた。(口加)
<私の願い>
三十八年間、外国航路の船員をしてほとんどの国を訪れた。アメリカがやっていることは「民主主義」の押し付け。国ごとにその人たちの社会があり、さまざまな価値観があることを認め合わなければならない。自衛隊のイラク派遣には大反対だ。命令する人たちは安全なところにいる。首相もまず自分が行けばいい。

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