池田 重満
池田 重満(68)
池田 重満さん(68) 爆心地から2キロの西北町で被爆 =長崎市西北町=

私の被爆ノート

死体の山におじ家族

2003年10月16日 掲載
池田 重満
池田 重満(68) 池田 重満さん(68) 爆心地から2キロの西北町で被爆 =長崎市西北町=

私は十一歳で、国民学校の五年生だった。祖母と三歳下の弟、それに稲佐町から疎開してきたいとこと西北町の実家に住んでいた。八月九日。午前中は授業がなく、朝から祖母と二人で近くの畑で草取りなどをしていた。

太陽が高く昇り、とても暑い日だった。急に浦上方面がピカッと光り、しばらくして何ともいえない鈍い音が響いてきた。青、黄、緑と虹色にゆらゆら光る雲のようなものが遠くから近づいてくるのが見えた。その雲とともに、サトイモの葉がバタバタと将棋倒しになって向かってきた。今思うと、あれが熱風や衝撃波と呼ばれるものだったのだろう。

私は怖くなって、学校で習った通りに目と耳をふさぎ、畑の溝にうずくまった。静かになってから顔を上げると、祖母は土手で草取りを続けているのが見えた。しかし、祖母の着物のすそが燃えだしたので、駆け寄って火を消した。

祖母は熱線を全身で浴びた状態だったが、やけどはなく髪の毛が焦げた程度。奇跡としかいいようがない。畑のそばの山がどんどん燃えだし、心配になって急いで家に戻った。

家は半分ほど焼けていた。裏の防空ごうに行ってみると、弟といとこが避難していた。家財を取るため燃える家に入ろうとする祖母を止めながら、家が焼けるのをじっと見ていた。

その日から、焼け残った杉林の中で生活した。そこには焼け出された人やけがした人が集まっていた。

一週間ほどして、戦地から戻ったおじと一緒に、おじの家族を捜しに出掛けた。爆心地近くの岡町にあったおじの家の辺りは、焼け野原になっており、黒く焦げた死体があちこちにあった。その日は家族を見つけることはできなかったが、後日、家族四人とも爆風で飛ばされ、溝に横たわって死んでいるのが発見された。あの死体の山から、家族が見つかっただけでも救いだと思った。
<私の願い>
原爆の何倍も強力な爆弾が今でも開発されている。発電など平和的な原子力の利用は賛成だが、原爆のように人類を滅ぼす使い方には断固反対する。「核保有で平和が保たれる」というのは矛盾がある。あの悲劇は二度と経験したくない。

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