八月九日朝、私は勤務していた長崎市幸町の三菱重工長崎造船所幸町工場内の加工外注課で、いつものように働いていた。話題は六日朝、広島市に投下された新型爆弾で持ちきりだった。午前十一時ごろ、書類をひもでくくっているとき、飛行機の爆音が近づいてきた。その瞬間、「バアッ」と、鋭い閃光(せんこう)が視界いっぱいにさく裂した。
「しまった。直撃弾だ」。反射的に両目両耳を両手でしっかり覆い尽くしながら、床に伏せた。何十秒、あるいは何分後のことだったか分からないが、ふと意識が回復した。「助かった。生きていた」。限りない喜びが、心の底からわき上がってきた。
辺り一面は薄暗く、目の前にはたくさんの材木が散乱し、私を覆い尽くしていた。周囲を確認しようと顔を上げると、たらたらと両目に血が流れてきた。頭をけがしていたが、痛みは全く感じなかった。目の周りの血を拭いて周囲を見回すと、いくらか落ち着いた。
「逃げ出さなくては」。そう考えた私は、がれきを避けながら建物を出た。目の前には血だらけの人や真っ黒く焼けた半裸の人々が無言でよろめきながら逃げて行った。私も同じ方向に逃げた。
工場近くの防空壕(ごう)にたどり着き、壕入口の壁に寄りかかった。だが、外の状況が気になり、辺りを見回した。それまでは自分の事務所が直撃弾でやられたと思っていたが、見渡す限り町中全体が一挙に被災していた。広島を襲った新型爆弾にやられたことが分かった。その後、私は浦上川を渡り、命からがら飽の浦町の下宿に戻った。
十日朝、大きな裂傷を負った左ひざが痛んだ。今考えるとなぜ行ったのか分からないが、その時は「行かなくては」との強い責任感で幸町工場に向かった。加工外注課にたどり着き、爆風で開きかけていた机の引き出しから愛用のそろばんと印鑑、財布を取り出した。がれきの山となっている事務室内を捜し回ったが、課員の姿はなかった。このとき見つけたそろばんは終戦後、あらゆる珠算大会で活躍してくれ、今も大切に保管している。
<私の願い>
一九四六年の精霊流しで、父親と幼い男の子が、小さな精霊船を引く姿を見て、戦争の傷跡をあらためて実感した。このような悲しいことがまた起こることのないよう、お互いが仲良く譲り合ってこの世に受けた貴重な生を、それぞれ精いっぱい全うできるよう切に祈っている。