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私の被爆ノート

気失い急激に視力低下

2003年10月3日 掲載
一ノ瀬美智子(62) 一ノ瀬美智子さん(62) 爆心地から2.8キロの片淵2丁目で被爆 =長崎市住吉町=

兄弟は四歳の私を含め四人いたが、一番上の兄は熊本に疎開し、母と祖母、二番目の兄、妹と暮らしていた。

八月九日は空襲警報が鳴り、家族と一緒に近所の防空ごうに向かった。たくさんの人がわれ先にとごうに走ってきていたので、とても怖かったのを覚えている。ごうの前には私の胸の高さくらいの段があり、そこを登れずに泣いていた。するとピカッと光り、左手を見ると、真っ白なきのこ雲が立ち上っていた。

その雲をぼうぜんと見ていた私を、大人の男性が抱きかかえ、ごうに入れてくれた。中には三十人くらいが逃げ込んでいたが、なぜか床が水浸しだった。祖母はからい帯を床に置き、病気がちの妹を寝かせた。私もそこに座らせてほしいとだだをこねたが、祖母に「(妹は)病気だから優しくせんばいかん」としかられた。ごうには一時間くらいいたと思うが、その程度しか覚えていない。

中学一年の時、授業中に突然目が見えなくなり、気を失った。そのまま丸二日間意識不明になり、嘔吐(おうと)を繰り返していたらしい。意識を取り戻しても両目に奥からえぐるような痛みがあった。その後二年間で急激に視力が落ち、医師からは原爆が関係しているのではないかと言われた。

四年前、胃が痛むようになり、検査をしたところ胃の中にかいようができていた。胃がんの疑いがあるということで胃の三分の二を切除。だが手術から二週間後、医師から悪性リンパ腫であると告知され、頭の中が真っ暗になった。

そのころ、知人から原爆症認定制度を教えられ、被災協に相談した。そこで詳しい話を聞き申請したが、長崎原爆では悪性リンパ腫による原爆症認定は難しいらしく、却下された。

抗がん剤による治療で、現在は回復している。だが、一緒に被爆した母と祖母はがんで亡くなったこともあり、いつ再発するかと不安だ。
<私の願い>
結婚して、最初に生まれた娘は脳性小児まひだった。体を動かすことも話すこともできないまま六歳の時に亡くなった。おそらく原爆が原因だったのだろう。私が娘を亡くしたり、原爆症認定の申請を却下されたように、被爆者は苦しみ続けている。被爆者の培ってきたことが無駄にならず、いつの日か援護制度の充実に役立ってほしいと願っている。

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