日高土太郎
日高土太郎(76)
日高土太郎さん(76) 爆心地から2.4キロの立山地区で被爆 =平戸市堤町=

私の被爆ノート

折り重なる患者と死臭

2003年9月25日 掲載
日高土太郎
日高土太郎(76) 日高土太郎さん(76) 爆心地から2.4キロの立山地区で被爆 =平戸市堤町=

原子爆弾が長崎に投下された時、立山の消防学校近くで民家の解体作業を手伝っていた。突然、稲光みたいなものが目の前を走り、その後に熱い爆風が吹き込んできた。「何が何だか分からなかった。不思議と音は聞かなかった」。消防学校に行くと、窓ガラスは粉々に砕け散り、教室のいすがひっくり返っていた。

自分のけがは大したことなかったので乾パン四個を食べて、昼ごろ、警察官とともに約二十人で浦上方面に向かった。そこは辺り一面焼け野原だった。人間はみんな黒焦げだった。地中に掘った防空ごうに逃げ込んでいた人も死んでいた。浦上川はやけどを負った人々がいっぱいいた。

建物の鉄骨はあめのようにぐにゃりと折れ曲がっていた。とにかくあちこち歩き回った。中には傷一つないのに、眠るように死んでいる人もいた。その日の午後には、頭上を低空飛行する米軍機二機を目撃した。「殺されると感じた」

救援活動は一週間続いた。長崎医科大にも何回も入った。患者が折り重なっていた。毎日かんかん照りで、投下三日目ぐらいには死臭がものすごかった。城山の方では、口をぱくつかせるものの声が出ない女性もいた。「米軍が野母崎から上陸する」とのうわさがまことしやかにささやかれた。

十五日。玉音放送を聞いた兵隊さんが町中で「日本は戦争に負けていない」と、怒っていた姿が思い出される。

原爆投下前にもB29の機影を何回も見たが、爆弾は落とさなかった。高射砲が応戦していたが、飛行高度まで届かなかったようだった。「負けるんじゃないか」とも思ったが、誰も言えなかった時代だった。

戦後、腕に斑点ができて気管支炎を患った。二、三年は体がだるくて苦しかった。急性ぜんそくに今も悩む。過去、医者に相談しても相手にされなかったが、被爆による後障害だと思う。
<私の願い>
人間の命は尊いのに、今も地球上では戦争が起こっている。せっかく人間として生まれてきたのだから、悪いことはしてはいけない。戦争は絶対に嫌だ。(どんな理由があろうと)人を殺してはならない。

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