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私の被爆ノート

うめき声の中一夜明かす

2003年9月11日 掲載
竹下 馨(73) 竹下 馨さん(73) 爆心地から1.1キロの三菱長崎兵器製作所大橋工場で被爆 =南高南串山町=

郷里の南高南串山町を離れ、十四歳で三菱長崎兵器製作所大橋工場に勤務。魚雷の鋳型を造っていた。原爆投下のほんの数分前、工場の地下室に設計図を取りに行ったのが生死を分けた。

地下室に下り立った瞬間、爆発音とともに天井から砂がバラバラと落ちてきた。階段を上ってみると、辺りは火の海だった。工場内では約百四十人が働いていたが、ほとんどが鉄骨などの下敷きになっていて、「助けてくれ」という悲鳴が響いていた。

一人ではどうすることもできなかった。しばらくすると、陸軍の兵隊たちが現れたので、夜になるまで救助作業を手伝った。泊まるところがなく、工場近くの防空ごうに行ってみると、けが人が三十人ほどすし詰めになっていた。

苦しげなうめき声の中で一夜を明かしたが、朝になっても誰も起きだす気配がない。周囲をよく見ると皆、腕がちぎれていたり、頭が割れていたりして、私以外は全員が亡くなっていた。思い起こすと恐ろしいが、感覚がまひしていた。

防空ごうを出て、さまよっていると小学校の同級生と偶然再会し、無事を喜び合った。一緒に南串山に帰るため道ノ尾駅まで歩いたが、どこも黒焦げ死体や重傷者でいっぱい。馬車を引いた黒焦げの馬が、立ったまま死んでいた。

けが人であふれる汽車を諫早駅で降り、千々石町まで歩いて行くと、親切な人が「長崎はひどかったね。休んでいかんね」と家の中に招き入れてくれた。そのときに食べさせてもらったおにぎりの味は忘れられない。

南串山にたどり着いたのは夜中だった。同級生の家に泊めてもらったが、早く家族に会いたかった。翌朝、やっとわが家に帰ると、両親が迎えてくれて本当にうれしかった。家族は既に長崎の惨状を知っていて、「馨はもう死んでしまったのだろう」と話していたそうだ。
<私の願い>
原爆の悲惨さは言葉で言い表せない。私たちにできることは、社会を担う若者たちに、核兵器の恐ろしさと平和の大切さを深く理解してもらい、二度と同じ過ちが繰り返されないようにすることだ。

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