森 紀晴
森 紀晴(73)
森 紀晴さん(73)
爆心地から4キロの西小島町の自宅で被爆
=長崎市平和町=

私の被爆ノート

大人に命じられ死体焼く

2003年9月4日 掲載
森 紀晴
森 紀晴(73) 森 紀晴さん(73)
爆心地から4キロの西小島町の自宅で被爆
=長崎市平和町=

海星中の三年生だった。学徒動員で川南香焼島造船所に行っており、八月八日は夜勤で九日朝に帰宅、昼すぎまで眠るつもりだった。空襲警報で起こされ、解除になってもう一度横になっていた。B29の飛行音がしたので起き上がろうとした瞬間、光が走り周囲が暗くなった。気付くと左手首にガラス片が二つ突き刺さっていた。

近くに爆弾が落ちたと思い、見物に行った。だが行けども行けども落ちた跡がない。途中で友人と一緒になり、県庁の前まで来ると、道に水のようなものが流れていた。木の棒で触ってみるとドロッとしていたので、おそらく溶けたガラスだったのだろう。

それから浦上方面に向かったが、ほとんど記憶がない。長崎駅から北に行ったことがなく、初めて見る街並みだったこともあるだろうが、けがをした人や死体など印象に残るものを見なかったからだと思う。

しばらく歩くと、鉄骨がグニャグニャと折れ曲がり、屋根がない大きな建物があり驚いた。後に写真を見て、それが茂里町の三菱長崎製鋼所だったと知った。

九日も夜勤だったので、午後二時半の船に乗るために大波止へ。だが船が出ないと言われ、自宅に戻った。夕方になると、別の中学に通う友人らが帰ってきたが、みんな汗とほこり、血にまみれていた。無事だった友人らと一緒にいた私たちの姿を見て、彼らは安心したのか、にこっと笑い掛けてきた。

後日、近所の大人に命じられ死体を焼いた。木材を探し、井げたに組んでその上に死体を載せた。そういった作業はすべて中学生に押し付けたので、大人はずるいと思った。火に包まれた死体はまず髪が焼け、手足が突然動く。なかなか燃えないのが内臓。その様子を、にぎり飯を食べながら眺めていた。何も感じることはなく、自分の中から人間味がなくなっていたのだろう。
<私の願い>
日本も戦時中、原爆を持っていたら使っていたかもしれない。戦争とはそういうものだと思う。ただ、米国は原爆によって戦争を終わらせることができたと言うが、原爆は焼い弾とは違う。原爆に遭って無傷でも、その後に放射線の影響で亡くなった知り合いもいた。使う必要はなかった。今後原爆が使われることがないよう戦争そのものがなくなってほしい。

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