田中 幸子
田中 幸子(70)
田中 幸子さん(70) 爆心地から2.5キロの長崎市西山町3丁目で被爆 =佐世保市日宇町=

私の被爆ノート

姉捜し駆け回った父母

2003年8月28日 掲載
田中 幸子
田中 幸子(70) 田中 幸子さん(70) 爆心地から2.5キロの長崎市西山町3丁目で被爆 =佐世保市日宇町=

長崎市立仁田小六年だった私は、空襲から逃れるため家族五人で暮らしていた西小島町の実家を離れ、西山町の知人宅に身を寄せていた。

八月九日は、朝から貧血気味で気分がすぐれず家族と一緒に家の中にいた。警報が解除され玄関先に出ると、まるで暗闇で急に電灯をつけたときのように目の前が真っ白になった。

次の瞬間、今まで聞いたことがないほどのごう音とともに辺りは真っ暗になった。爆風で何かの破片が飛んできたのか、気が付いたときは腕や足が傷だらけだった。とても怖かったので記憶が途切れているが、父の背中に抱えられて避難場所に向かったのをうっすら覚えている。

しばらくたって避難場所近くの山上から浦上方面を見渡すと、建物がほとんど見当たらず、一帯は炎に包まれていた。父と母は、結婚して大橋町に住んでいた姉を捜して廃虚を駆け回った。

私は、肌が焼けただれ、息をしているのか分からないほどの人が戸板に乗せられて山上に運ばれてくるのを見ながら、姉の身を案ずる母の気が狂いはしないかずっと不安だった。その姉は、倒壊した家屋の下から助け出され、傷だらけでさまよい歩いていたのを数日後、父が見つけ連れ戻した。

終戦間もなく、通りすがりの男性からキュウリをもらった。かむと煮え腐ったように熱く、ふっと「あの大やけどを負った人がどんなに苦しんだのか」と思い起こした。あれ以来、キュウリを食べるたびに戦争の恐ろしさと平和の尊さが胸に込み上げる。

被爆後は、下痢や吐き気が数カ月続いた。手の震え、ひざや背中の痛みは年を経ても消えることはなく、痛みで眠れない日もある。肝臓障害を抱え、医者からはいつがんになるか分からないと言われた。家族も入退院を繰り返した。

イラク戦争を報じる現地のテレビ映像は、被爆当時を思い出させるので見ることができない。朝鮮半島の情勢がこれ以上緊迫しないか、不安はどんどん募るばかりだ。
<私の願い>
戦争は罪のない市民を巻き込む。これほど愚かで不幸をもたらすものはない。もう二度とあのような生き地獄は見たくない。若者は、同じ経験をしないで済むように被爆者の言葉に耳を傾けてほしい。

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