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私の被爆ノート

命からがら工場の外に

2003年8月21日 掲載
堂尾 敦子(76) 堂尾 敦子さん(76) 爆心地から1.5キロの長崎市家野町の三菱兵器製作所冶工具工場で被爆 =西彼時津町日並郷=

瓊浦高等女学校四年だった私は、報国隊として長崎市家野町の三菱兵器製作所治工具工場に通い、部品を作っていた。

八月一日、茂里町の三菱製鋼が爆撃に遭ったと聞いた。心配した母は江川町の自宅にいるよう望み、私は八日まで工場を休んだ。だが、ずっと休んでいることに気がとがめ、九日の朝は工場に向かった。

作業をしていると空襲警報が鳴り、防空ごうに避難。その後、警報が解除になったので工場に戻り、機械に油を差していた。

突然、周りがオレンジ色に光ったと思うと、作業場の屋根が崩れ、がれきがバラバラと背中に降りかかった。私は恐怖におびえ、落ちてくるがれきを避けながら命からがら工場の外に出た。みんなの後をついていくと、川の暗きょに学校の下級生が避難しているのを見つけ、少しほっとした。

土地勘が乏しかった私は、近くにいた三十歳ぐらいの男性に帰り道を尋ねた。すると男性は「落ち着くまでうちで休まんね」と言い、住吉にある男性の家へ向かった。途中、死んでいる馬や皮膚が垂れ下がったまま歩いている人を見て「この世の終わり」と感じた。

男性の家に着くと、井戸水をガーゼでこして飲ませてくれた。男性は泊まっていくよう勧めてくれたが、母が心配していると思い、家に帰ることにした。男性は土井首の親類に無事を伝える手紙を書き、私に預けた。

街はがれきの山で、県庁が燃えていた。私は男性に言付かった手紙を握りしめ、懸命に歩いた。道すがら、近所に住む縁せきの子と出会い、一緒に自宅へ向かった。

辺りはもう真っ暗だった。自宅から約二キロ離れた鹿尾橋で手紙を警防団の人に渡すと、橋のたもとに母が待っていた。母は「止めるのを聞かず工場に行ったけん『助からん運命やった』とあきらめていた」と涙ぐんだ。

あの日を思い出すと今もつらく、子どもや孫に原爆の話をしたことはない。二十年前から甲状腺を患い、薬を服用する毎日。卑劣な核兵器を絶対に許すことはできない。
<私の願い>
戦争は本当に嫌。世界平和が叫ばれる中、争いがなくならないのはなぜなのか。犠牲になるのは結局、市民や子どもたち。戦争の様子を伝えるニュースを見るたび怒りと悲しみが込み上げる。一刻も早く争いのない世の中になってほしい。

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