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私の被爆ノート

脳の腫瘍、原爆が原因か

2003年8月14日 掲載
吉川 泰子(74) 吉川 泰子さん(74) 爆心地から6キロの長崎市桜馬場町の市立高等女学校で被爆 =西彼西彼町上岳郷=

当時、長崎市立高等女学校の二年生。学徒動員で三菱重工長崎造船所幸町工場に行っていたが、原爆投下の約一カ月前に学校に機械が移され、屋内体育場で魚雷の小さな部品を作っていた。

八月九日も朝から学校で作業をしていたが、空襲警報が鳴り、防空ごうに避難した。警報が解除になったので作業場に戻り、しばらくしたら、せん光が走り、ガラスが割れ、外が真っ暗になった。目の前に爆弾が落ちたと思い、全員で防空ごうに逃げ込んだ。

その後、帰宅の許可が出たので小島の自宅に向かって歩いていると、体中ぼろぼろの死にかかったような人たちがいた。頭に包帯を巻いた人、肉が垂れ下がった人たちが座り込んだり、一人で歩いて来たり、また助けられながら逃げて来ていた。その無残な姿に思わず目を背けてしまった。

自宅には母と祖母が残っていたが二人とも無事で、抱き合って喜んだ。

この新型爆弾がまた落とされるといううわさがあり、十四日夜、いとこ二人と一緒に南高来郡の千々石の母の実家へ疎開することになった。重いリュックを背負い、生きたい一心で夜通し歩いた。翌日の昼ごろだったか、諫早の小野にあった駅で、ラジオから玉音放送が流れ、そこにいた人たちは皆、真剣に聞いていた。

わたしはトラックに乗せてもらい、何とか千々石にたどり着いた。血便が出て髪の毛が抜け、九月すぎまで寝込んだが、当時は原因が分からず赤痢と思い込んでいた。ようやく復学したが欠席者も多かった。

約十年前、体がきつくなり、右目が見えなくなった。大学病院で検査をしてもらうと脳に八センチくらいの腫瘍(しゅよう)ができていたので、手術で切除した。担当医師からは原爆が原因ではないかと言われた。現在も右目が見えず、顔の右側と左足がまひしたまま。腫瘍が再び出てくるかもしれず、いつまで元気でいられるか心配だ。
<私の願い>
戦争は食べ物もなくなり本当にいやなもの。でも毎年八月になると、どうしても原爆のことを思い出してしまう。世界中で核兵器廃絶を求める運動があっているのに、なくならないことは悲しい。今年イラク戦争があったが、早く戦争のない世の中になってほしい。

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