徴用工として働いていた三菱長崎造船所の第二船台で、マルコウと呼ばれていた特殊潜航艇の建造作業中に被爆。十七歳だった。潜航艇は長さ四―五メートルで、薄い鉄板を張り合わせて造っていた。空襲警報から警戒警報、そして警戒警報が解除になり作業を再開していたとき、一面が黄色い光に包まれ、しばらくして爆風が押し寄せ、辺りは粉じんに包まれた。
何がどうなったのか分からないまま仲間と近くの防空ごうに避難。夜遅く、新戸町にあった造船所の寮に帰ったことは覚えているが、その日のことはそれ以上の記憶がない。
翌日は船で戸町から飽ノ浦に渡り、水ノ浦から稲佐方面に死体の収容作業に連れて行かれた。班単位で二十人くらいのグループだったと思う。道沿いに人と馬の死体が横たわっており、膨れ上がったり、黒焦げの状態で人間の形をしていなかった。
浦上方面は一面の焼け野原で、電車の終点には台車の部分だけ残し、上部が吹き飛んだ電車の残がいが無数にあった。
死体の収容作業には二日間従事。空き地に集めては焼いた。兵隊だったと思うが、川の中の死体を針金のようなものでくくりつけ「引っ張れ」と命令されて引き揚げたことを覚えている。空腹だったが、死体の腐臭がひどく、警防団から渡された握り飯がのどを通らなかった。
作業の帰り道、旭町付近だったと思うが、被災した缶詰工場の中で「パン、パン」と缶詰が破裂する音が聞こえた。仲間と缶詰を拾っていたら巡査からとがめられ、仕方なく元に戻した。
後から知ったが、原爆が落とされたとき造船所内では防空ごうの掘削作業が行われていた。原爆の爆発で防空ごうに避難した工員が、事前に仕掛けてあった発破で爆死した事故もあった。原爆落下の直前に導火線に点火していたのだろう。
八月二十二日に大波止に一晩泊まり、翌日、古里の大瀬戸町多以良外郷の実家に船便で帰った。「よう死なんで帰って来たなあ」と家族に言われた。
徴用工で働いていたころは食べ盛りの年ごろ。いつも腹をすかせ、ひもじい思いをしてきた。造船所では皆、少しでも重い弁当箱を選び、寮では食べ物をめぐるけんかもあった。(大瀬戸)
<私の願い>
平和が一番大切。今の日本がいいとは思わないが、イラクなど、昔と同じことが繰り返されている。北朝鮮の核製造疑惑が問題になっているが、米国をはじめとする核大国は言うことと自分たちがしていることに矛盾がある。